ポピュリズム

本を借り出しに図書館に行って、雑誌をぱらぱら見る。ひさしぶりに現代思想を手に取る。読むと内容を理解できない論文がやはり結構ある。よくも悪くも、ああいう世界からずいぶん遠いところまで来てしまったのだなと思う。
論座では都立大の顛末を読む。案の定。
実は昨今のいわゆる「ポピュリズム」を支えているのは大卒のインテリだと思う。立身出世はもともと手段が目的に転化したものではあるのだが、そのことがある種のリアリズムを保証していたとも思う。とはいえ全般的成長を前提とした、いわば保護区のなかでのリアリズムに過ぎなかったことはそろそろ認識しておかないといけないわけで、ある種の理念ないしは原則なしに、利害の調停を合理的かつ経済的に行うことはもはや不可能だろう。
ただし理念ないしは原則にたいするあえてする軽蔑の、その快感がポピュリズムを支えていることは、ある程度、実感としてもわかる。嘘と知りつつその嘘に乗って行う迫害が、ある種の残酷な快感をよびだすこともまあ、想像可能なものとしてぼくのなかにその感情があることからもわかる。ただ、その快感はサディスティックというよりはむしろマゾヒスティックな快感だろう。おそらくは気がついているのだろうが、しかし、そのことが何を意味しているのか、どこまで直視できているのだろう