うーむ

前のエントリーは途中からぐずぐずになっている。赤面ものだが厳密に言い直したり、訂正したところで、おもろいなんかが出てきそうな話でもないし、恥を忍びつつなかったことにしよう。いろいろ書きたいことがあるけれど、書きたいことを書いている時間はないので、どうしても30分くらいで書けるようなことしか書けない。しかしまあ日記ってそんなものか。

フランスの暴動はどうなってるんだろうとネットでニュースを見ていたら、内相のサルコジが小石(カイヨー)がどうとか、知らん単語で罵っていたので、辞書引いたり、le monde見たりしたらどうやらracaille(ラカーユ=ゴロツキ)と言っちゃったらしい。ちょっと前には、合法だろうが違法だろうが(滞在許可証持ってようが持ってまいが)、暴動に参加した移民は、牢屋にぶち込んで国外退去処分だとやって、一個の犯罪で二重に処罰するのはイカガナモノカと批判を受けていた。サルコジにとっては逆風とのことだが、国民の支持率は高いようなので、そのへんはよく見極める必要があるんだろう(ド・ビルパンもいるし)。
議会ではならずものvoyouと言ってたから、どちらかというとvoyouのほうが上品な単語なんだろうか。voyouはブッシュがイラクに、イランと北朝鮮もふくめてだったか、ならずもの国家、rogue statesといったときの仏訳がvoyouだったようだから、ふとそのときのことを思い出した(たぶんわざと言ったんだろうが)。向こうは対外戦争で、こっちは内部分裂だけれど。
ただ、たしかに、ド・ビルパンもシラクも治安を強調して、同胞市民の安全を守らねばならないと言ういっぽうで、共和国と国民の一体性というものにどうしても触れざるを得ない。国民と共和国、ナショナリズム(というかナシオン(=ネーション)の大義・理念)と、ある種のデモクラシー(平等)というか、それに随伴する法治主義というか、そういったものが、左右を問わずの(いやむしろ「保守」の側のというべきかもしれないが)国是であったという特殊事情がそうさせるのだ。革命の、すくなくともその成果というものを肯定し、国家の理念の根底に据えてしまっているからだ。
これはつづめて言えば、「平等な政治および社会参加」の形式的(法的)および実質的(経済社会的)保証ということである。共和国という理念のイデオロギー的な価値が非常に高いために、そのフィクションを維持するためにも、こうしたメカニズムが半ば自動的に働くことになってしまう。少なくとも今のところ。
少なくとも、というのはこういってよければある種の階級社会が維持されているあいだのことかもしれないという予感(悪い予感?)もするからなのだが。

けっきょくはなんとなくシラクがまたおいしい所だけもってゆくのかなという気もするが、なんにせよ、強圧とセットで、いっぽうで同化政策のための、貧困無職若者への社会政策のための予算支出をまた復活させたりということの政策的プライオリティは高くなる。そういった国民の一体性を保証する政策は、シンボリックな意味をもってしまうからだ。