つれづれ

ロックについて授業をして、戸惑ったのは、学生の持っている奇妙なとしかいえない「哲学」にたいするイメージだった。たしかにある種の「哲学者」にその責任の一端はないとはいえないのだが、現実にはある制度上の枠組みに過ぎない、日本語で「哲学」と呼ばれているものが社会的に担わされている(あるいは担っていると思いこんでいる)ある役割についてのイメージだ。それはいわゆる哲学周辺の人びとが哲学にたいしてもっている幻想でもあって、おそらくいまでは哲学者自身が捨て去ってしまったはずのイメージだろう。もしハッキングのいう言語論的転回が正しいとすれば。ハッキングの言ってることは大筋で正しいように思う。(あるいはジル・ドゥルーズが偉大な例外なのかもしれないが。)
アルチュセールは「哲学はみずからの対象を持たない」といったが、現実の哲学は、言語の用法(ヴィトゲンシュタイン)ないしは、概念の系譜(ハイデガー)をその対象として持っているようにも見える。前者はしばしば記号論理を、後者は文献学的アプローチ(端的に言えば語学と史学)をその方法として活用している。前者は言語からその厚みを取り去り、共時的なその広がりのなかで問題と回答のセットを配置、再構成し、それが一種の慣習であったことを示す。後者は対照的に通時的な側面からのアプローチであり、むしろ言語が、それが示すはずの概念を、語源に遡及すると称しながら、外国語と交雑させ、概念をその直感的な把握が不可能なところまで繁殖させることで、その厚みのなかで、やはりまた問題の再構成を目指しているように見える。両者にとって固有名がひとつの問題として現れることは興味深い。前者においてそれがクリプキだとすると(これはちゃんと読んでなくて間接的な知識だが)、後者においてはベンヤミンだろう。ベンヤミンには、あらゆる単語が固有名として立ちあらわれているのだろうか。(この辺はもう少し考えよう。)
これがぼくの持っている哲学についてのイメージであり、それぞれ読んだかぎりでは、それぞれに信用のおけるものであるように思う。単純に言えば方法における論理学と語学という、自言語の慣習や文化に逆らうものを、抵抗の装置というか、思い込みを正してくれるかもしれない批判者として担保していることが大きいのではないかと思っている。あるいは数学がその役割を果たすこともあるかもしれない。それらは紙と鉛筆によって思考を「もの」にして、目に見えるようにする技術であって、中世の大学における「自由学芸」は、現代においては、こういうものとして理解した方がいいんじゃないか。自国語の拘束に抵抗し、慣習的でないイメージ、直感的には受け入れがたい結論へと至るための道。そういう意味ではフィールド・ワーカーにとってのフィールドに代わるものでもあるようにも思う。そこでは繊細な技術が大切になる。
だから現在のザ・哲学はずいぶんと控えめなものだとぼくには思える。もちろんその控えめさはぼくにとって好ましいものだが。それは論理的な必然であって、その控えめさにしばしば学生は不満をもつのだが、最終的にそういう学生は疑似宗教に救いを求めることになるようにも思う。疑似というのはある種の現世利益に結びついた、欲望とその充足を旨とする宗教であって、彼岸というものを持たない(つまり理念があるようでない)宗教だからだ。そうした宗教が科学の成果の搾取によってなりたっていることもまた、歴史的な必然であるように思う。(たとえばvie (life)を生活と訳さずに生命というまさに化学ー生物学的な成果によって成立した概念を用いながら、じっさいはそれをまったく別の、永遠に滅することのない来世での生活、vie eternelleに重ね合わせて用いるなど。)
つづく
これって後期の授業なんだが、できるんだろうか。