そういえば

小学校から中学校に上がったとき、『蠅の王』(ゴールディング)めいた経験をしたことをふと思い出した。さすがに殺し合いはしなかったが、人生がむちゃくちゃになった人も多い(教師で)。やめてしまった人もいれば休職のまま職場復帰できなかった人もいた。

小学校の時の最後の方の担任は社会党支持だった。というのも選挙が終わった夜、父親が***先生が選挙ポスターはがしていたのを見たというのを夕食の話題にしたからなのだが、それがなんとなく記憶に残っているのは、おれの顔を見て、絶対ゆうたらあかんど、と言ったその顔が思いのほか真剣だったからかもしれない。
社会党支持だからというわけでもないのだろうが、そのクラスはまるで敗戦後のようなデモクラシー万歳というクラスであって、それはそれでよいクラスだったように思う。スーパーカー・クラブというのを勝手につくり、遠足と称しては男女混合で山に登り、川に泳ぎに行った。喧嘩はほとんどなく、腕力に基づく支配には一定の制限がかけられていた。

それがはかないものであるのを知ったのは中学に入ってからで、以前書いたように、三階から机や椅子が降り、教師は衆人環視の中で殴られ、渡り廊下では金髪の三年生がたばこを吸うなかを教師は前方を凝視しながら各教室に向かった。泣きながら四つんばいで靴をくわえさせられた教師もいたとう噂がまことしやかに流された。

そうした環境におかれればここがかつての場所ではないことは否が応でも気がつかざるをえない。かつてのルールがぽろぽろと崩れてゆくのをなかば呆然としながら見ているしかなかった。新しいルールで利益を得ることになる者はじょじょにそのルールを身につけた。暗黙の了解なのか、ある種の負い目なのか、新しいルールはかつてのクラスメートには適用されなかったのは、やはり後ろめたい何かがあったからなのか。

別の校区の小学校から、持ち上がりの人事異動で、ひとりの教師がやってきていた。ここ数年で最悪といわれた僕らの学年を早いうちになんとかするために、親からも生徒の誰からも慕われていた彼がやってきたのだったが、結果は悲惨の一語に尽きた。人間は他人が大事に築き上げたなにものかを踏みにじることに快感を覚えてしまう動物でもあるらしい。警官隊が導入され、何人も少年院に送り込まれたあとも、彼は休職したまま学校に戻ってこなかった。精神を病んだという噂を聞いた。卒業してしばらくあと、父親に聞いたらやはりまだ復職していなかった。あのまま小学校に残っていれば人気者の熱血教師だったはずだ。

3年の時に担任となったのは事件後の立て直しの中心人物のひとりだった。会議で、この事件は今までの教育方針が完全に間違っていたという事実から出発しなければならないという発言をしたそうだ。こうした発言や今後の方針にかかわることは地域新聞で逐一報告されたものだ。秩序は戻り、適度に暴力が幅をきかす、乱暴な港町の中学に戻った。不良たちも彼をうっとおしがりながら、それでもまあ言うことは聞いていた。聞いていたのは、尊敬していたからというより、あれはまずかった、あれは避けねばならないという暗黙の了解であったように思う。

その彼にしばしば無言電話がかかり、注文しない寿司が届けられるようになった。体の悪い母親がいるのだ、夜中の電話には出ないわけにはゆかない。涙をこらえてその担任は誰に言うともなく語った。意味がわかったのは、担任が職員室に戻ったあとだった。ひとりの少年がこころの底から楽しそうにざまあみろと言い、あの顔見た?といかにも小気味よさそうに笑った。それを聞いていた不良たちもさすがに気まずい顔をしていたが、とはいえそこには、さすがにそれはまずいという感情と、まさにその感情こそを踏みにじるべきだという、悪ぶることの価値とのあいだで、揺れがあったように見えたこともたしかだ。彼らもそのことに気がついていたのか、気がつかないままであったのか。幸か不幸かは彼は人徳がなく、その話はそこで立ち消え、かならずしも腕力のない彼は、腕力のある他人の同意なしにはそれ以上のことはできなかった。

ちなみに彼は僕を目の敵にしてはいたが、残念ながら僕は彼に尻尾をつかませることはなかった。なんどかひやりとさせられたが。何が不愉快だったのだろうか。一歳下の彼のいとこは、なんの関係もないもなかったのに、なぜか僕にまとわりついた。ときどき僕はくだんの彼のことを好きかと聞かれた。好きなわけがない。が、曖昧な返事をしたまま、その話題を続けようとは思わなかった。結局なぜ彼が僕を目の敵にするのかは分からなかった。彼に問いただしていれば理由はわかったのだろうか。けれどそのとき僕は知りたいとはこれっぽっちも思わなかった。

中途半端に勉強ができたのがまずかったのかもしれない。試験の成績が公表されるという牧歌的な時代であったので誰がどれくらい勉強ができるのかは一目瞭然であった。暗黙の了解で全校で五番以内に入っていれば、よほどのことがなければ殴られるようなことはなかった。ぼくは2,30番台をうろうろしていたから、その安全地帯にはいなかった。結局、とびきり優秀であればそれは尊敬すべきだが、ガリ勉は憎まれる対象でしかない。本来同類であるべきものが、不正な手段によってそれを脱出することは許されざる行為だったということなのだろうか。たしかにガリ勉が忌避される理由としては、そこになにか不正なものがあるからという理由であるような気がする。
ガリ勉の認定はガリ勉をしたところで結局本当に優秀な奴には勝てないのであるから、中途半端によい成績しか取れない奴がガリ勉だという論理で決定されたようだ。ガリ勉はしても無駄なのだからそんなものすんなとも言われた。しかしこういう場合おれは勉強はしていないと言うことはできない。まさにそれがガリ勉の印でもあるからで、ガリ勉というのはだから言われた瞬間にそれを引き受けざるをえない。やっかいなことに、この程度の初歩的な心理ゲームを使えるほどには狡知ではあったわけだ。おまえは賢そうな顔をしていないのに成績がいいのはガリ勉に違いないと、これは半ば冗談めかして別の奴に言われたことがあるが、さすがにそのときは、そんなことを言われてもと思うと反面、思春期でもあり、俺は客観的にはどんな顔をしているのだろうと何とも不安な気持ちになった。まあそんな理由もあったかもしれない。

そういえば高校時代、一度だけ受けた模試の成績がよかったとき、いつも一緒に追試(平均点の半分以下の点だと追試。つまり追試はほとんどつねに発生する)を受けていたある友人がその成績表を見て、おまえも就職組だと思っていたのに!と悲痛な声で叫んだのを思い出した。たしかに裏切り者、というニュアンスであったように思う。大学に行く、行かないということがもたらす人生の違いは、それがどのようなものかはっきりと分からないだけに、言いようのない不安として、僕の行っていたような中途半端な進学校の生徒は感じられていた。(ちなみにそいつはどこかの大学に入った。卒業後には交流はなかった。もともとそれほど(追試の直前以外は)仲がよかったわけでもないし、成績が悪いという以外の共通項はなかったのかもしれない。ちなみにそのとき俺が思ったのは、俺は(校内で)200番台だけど、おまえは300番台やんか、というもの。)

そう、中学時代に話を戻すと、いつものように授業中にうとうとして机の上に突っ伏していた。教師が近づくのが気配で分かったが、起きようとしたその瞬間に、家で徹夜で勉強したから寝ているんだろう、あーあ、ガリ勉はいやだなあ、というくだんの彼の大声が聞こえ、目ははっきりと覚めたものの起きるに起きれなくなった。教師も起こすに起こせなかったようで、そのまま居眠りの振りを続けるしかなくなった。適当なところ目が覚めたことにしたが、教室を覆っていた何とも気まずい空気には気がつかない振りをするしかなかった。

すでに牧歌的な時代の話ではあったのだが、その悪意はなにかしら邪悪なものが含まれている気がした。そんなこともあったからかどうか、秩序はつねに不安定なものであると意識されていた。今でもその癖は抜けない。一言でいえば僕はデモクラシーを信用はしていない(信仰の対象ではないというべきかな)。制度はまあ(それが理念であるかぎりで)信用してもよいが、デモクラシーはとても制度とは思えない。あれは力そのものであって、統御の対象でしかない。

それはそうとなぜあのころああいう成績しかとれなかったのかはわからない。それなりにやっていたような記憶もあるのだが。

むろん望んでも得られない(と思われていた)成績でもあったわけだが。都会であれば平均的な成績だったにせよ。

そんなこんなでゴールディングのあの本にはすこし物足りないところがある。