授業で

  • ゼミで。社会化という言葉をめぐって

どうしても保険と貯金の区別ができない。せっせと自分の未来のために貯めるのが貯金でこれは「自己責任」のお話しになる。アリとキリギリス。事故にあったり、病気になったり、冬になったら、せっせと貯めたじぶんの財産で、対処する。
保険はリスクのシェアであって、確率的にひとびとに降りかかる事故に対応し、わたしの代わりに、あるいはわたしたちの代表として、ある運命を担うことになったアノニムな誰かにたいして、その事故に対処するための基金を拠出すること。
帰責の単位が個人ではなく、保険会社や政府というエージェントによって代表されているある集団(共同体)が一方の当事者になる。事故にあい、病気にあったとき、日本風の言葉遣いをすれば、その「責任」をとるのは、掛け金を払うことで参加した共同体、ということになる。
保険の参加者が支払った金は「社会化」されており、事故にあったり病気になったりしたわけでない「わたし」の支払った保険料が、別の誰かの病気のさいに使われたとしても、それ自体に文句を言う人はいない。病気になったのは「あの人」だけれど、それは「わたし」であり得たかもしれない(だからわたしは保険料を払ったのだ)、ということがどこかで担保になっている。それはとりあえず「連帯」と呼んでいい。
アノニムなものからなり、互いに「交換可能」な存在であるからこそなりたつ連帯が保険という制度を保証している。つまりそれは個性と自己実現を尊ぶ日本的左翼メンタリティとは実は微妙に相容れない制度ではあるのではないのか。
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「あの人」は「わたし」ではありえないと思った瞬間にこの保険の共同性は存在が怪しくなる。
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年金も同様に、いずれわたしにも(これは運が良ければ)おとずれるはずの老後にたいして、自分自身で備える(貯金)という立場。貯蓄と運用。日本は主として年金をこのように理解している。
もう一方は、むしろ(主として)世代間の連帯として、もっと厳密にいうと、労働可能な者たちと、もう労働可能でない者との「連帯」として理解する仕方。たとえば主としてそれを税金でまかなう場合など。いずれ「わたし」も「あの人」たちのように、労働できなくなるのだから、そのときには立場は変わるのだという理解の仕方。
ただ年金には微妙なところがあって、連帯主義の生みの親であるフランスにおいても拠出金に応じて年金が高くなる仕組みは存在するので、その意味では純粋な連帯原理のみに基づいて制度設計がなされているわけではなく、またもっぱら前者として年金を理解しがちな日本においても、制度上はすでに税金の投入による後者の発想が流入している。
だが、年金がある種の保険である限りで、そこには全く異なるイデオロギー的要素が存在しており、そこを強調しなければその仕組みの(すくなくとも歴史的な)意味、つまりなぜそのような制度が現に存在しているのか、ということは全く理解できないのだが、どうもこれが難しいようだ。
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いわゆる代替貨幣とよばれているものの多く(プルードンからレッツまで)は基本的には貨幣というまさに市場原理を支える制度に、この保険原理(運命のシェアー、リスクへの集団的対処)の性格をいかに導入するかという試みとして理解した方がよく、その意味であまりそれを「革命的なもの」としてとらえることは間違いであるし、少なくとも現在までのところ、運命をシェアーすべき、ある「共同体」の存在を前提する。
いずれにせよあれらの制度のきもは、交換を行う主体の少なくとも一方がもはや個人ではないというところにあるのだから。
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というようなことを毎回あらゆる授業でしゃべって、みんなうんうんと聞くのだが、確かめるとやっぱり分かっていない。下手なのか。やっぱり。
ただどうしてもこの保険原理が別のイデオロギーないしは理念に基づいているということを「国民的」に理解できていない可能性はあって、最初に労働保険の導入を議論したさいにも、どちらかというと保守的な側が、強制加入を主張し、左派ないしは進歩派が任意加入を主張するという逆転現象が起きたのだが、それは左派の主張が、保険の加入は、労働者、という「主体」が自己というものを「意識的」に形成するためには、自分の「将来」をコントロールするという意志を持たねばならず、そのためには自らの決断で加入を行わねばならない、というまあ正論といえば正論だが、自己の運命を自律的にコントロールする主体の形成、という文脈でしかものを考えるというか、制度設計を考えてこなかった、ということがある。自律的主体の確立か、共同体原理への回帰か、という二者択一しかないので、たとえばリスクのシェアーという問題は後者の枠組みのなかでしか理解されない。まあ共同体的といえば、そうなんだが。
結局この辺りの取り違え、というか違いの認識についての不足が、のちのちの市民社会派の議論にまで尾を引いてしまうことになって、連帯という契機を左翼から奪うことになった、と日記に書いておこう。
まあ後半の話まで理解してもらわなくてもいいんだが、結局この辺りの議論が理解できないと、「社会的」という形容詞のついたもろもろの事柄、が理解できないことになる。ちなみにカステルは年金は賃金の社会化をつうじて構成されるといっているのだが、その社会化という概念が、もう、わからない。自律的な主体、その限りで、ありうる事故や老齢化にも、きちんと責任をもって対応できる個人からなる集団が社会である、とまあ、すっきりはしているが、なんとも単色の社会観しか、学生さんは持ってくれない。まじめな子ほど、そうなんだな。
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損得というのは分かりやすくていいんだが、どうしてもそれを個体の水準に引き付けてしまうというのが、いまのところ「日本的」集団観を構成しているような気がするんだよな。