趣味と民主主義

ううん。上で言ったことは推論が逆かもしれんな。日本から考えた方がいいな。どうして日本だと(あるいはアジアのいくつかの国では)あれほど同じような姿形をした人間が大量に街に存在しているのか。雑誌やテレビを見て、ああ、あんな格好をしたい、という風に思うからだな。目標があってそれに手を伸ばそうとしているのか。たぶんいわゆる60年代の家電の三種の神器とか、マイホームとか、そういったものは、そうだな。
じゃあ現在のファッションの流行についてはどうだろう。何かに手を伸ばしてそのポジションを手に入れようというする態度だろうか。少し違うな。かっこわるいのはいやなんだよな。で、おしゃれしようとするよな。そのときたぶん好きなもの、つまり「趣味」がないんだよな。つまりきれいなものが好き、という直球ではなく、「かっこわるい」という相対的な差(ある基準をもとにしての差)を問題にしていると。だから何がきれいかではなく、何がきれいと思われているか、というケインズ美人投票モデルにはじめから乗っかっている、ということか。
でもまあ本当に服が好きな少ない人びとをのぞくと多かれ少なかれ、みなそうなんだよ。程度の差でさ。ある領域について、他者の視線から始めることそれ自体は不可避であるということではある(とりあえずそうしておこう)。
だから問題はそこから先か。はじめっから「俺はこれが好き。文句あるか」っていう偉人をのぞくと、何かその辺の趣味判断が曖昧なやつが、そこからとりあえず「自分の趣味」というようなものを育てようとか、自分は何が好きなんだろうとか、そっちの方に向かわないのはなぜか。あるいは「俺はこれが好き、文句あるか」という奴が、なぜ他人のコピーのままなのか。
あるいはなぜ他人のコピーではまずいのか。自分の趣味がないとまずいのか。おれ(わたし)はあれが好き、という何かはっきりした判断ができないのはなぜまずいのか。
まずい感じがする。たしかにそれはデモクラシーの危機であると、そういう感じがする。ただしそのデモクラシーの捉え方はたとえば、ヨーロッパの政治理論の中でアリストテレス政治学が翻訳されて以降、一般に共有されていたデモクラシー観とはまったく逆で、むしろデモクラシーを批判するための議論に用いられてきた論点だ。
つまりたとえばモンテスキューの場合、貴族政の精神が、偉大さgrandeurを尊ぶことに置かれていたのは、他方にデモクラシーにおける凡庸さmediocriteへの批判として、それが対置されていた、ように。
基本的にコンスタンのあの議論は、シエースを承けて代議制の擁護、という観点からなされていたものだ。そして代議制は貴族政の民主制原理との和解ないしは前者の後者への導入だ。メリトクラシーという名の貴族政のもとで、しかしある種の民主政の原理を擁護しようとするために、あるいは(ネガティヴにいえば)実質的な貴族政のなかで民主政のフィクションを維持するためには、被選挙権を持つ者(能動市民)と選挙権のみを持つ者(受動市民)を分け、しかし、受動市民が受動的であるとはいえあくまで市民であることをいうために伝統的に持ち出されてくるのが、例のアリストテレスの議論に基づく限定的な理性行使が可能な存在を仮構するという議論だったわけだ。そしてそれがシエースによれば、スミスの社会分業の議論を政治の領域に応用ということになる。ただし、コンスタンの場合は少しそのニュアンスが違っていて、シエースの場合では露骨に能力の差として設定されていたこの区別が、あくまで政治的、公的領域と私的、経済的領域の差として「も」設定されており、しかも、どちらかといえば後者の領域を重視し、後者の領域に専念するとはいわないまでも、むしろ私的領域を人間の活動領域として設定し直すという意図があったと考えていいだろう(いいだろうか)。一般にはそれはジャコバン独裁による「公的領域のみ」の世界の閉塞とその恐怖にたいするアンチテーゼであったといわれている(でいいんだよな)。
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で、きのうの俺の議論は、シエース/コンスタンが公的領域の議論のために持ち出した趣味判断の能力をいわば経済的/消費的/私的領域で作用させたわけだ。いやいや趣味判断という言葉を使った瞬間に、それはその領域において作用する能力を指すことになる。素朴に考えれば。
アレントは方向を逆に考えたわけだが。どうもアレントは筋が悪いように思えて仕方がない。)
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限定的な理性(シエース)、ないしは私的な自由の確保のため理性の限定使用(コンスタン)という政治理論の問題と趣味判断の問題を混ぜて使うことは、もうすこし厳密に考える必要があるね。
空論になる前に、すこし思考を停止しよう。今日はここまで。
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