から本をもらった。

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

勤務先にはいろいろ困ったところがあって、建物の計画というものがないのがそのひとつだ。いまいるじぶんの仕事場から郵便物の届くところまではけっこうな距離がある。それでついつい郵便物を取りに行くのが億劫になるうちに、たんにお礼を言うには遅れ気味になってしまい、それに友人だからといってすばらしい本ですとか言っていい気にさせてもそれは友だち甲斐がないし、だいいちあの自分のオフィスのマホガニーの机でふかふかの椅子に座ってペルシャ猫をなぜている姿が思い出されてムカツクので、ちょっとワサビでもきかせてやれと思っているうちに、じつはそんなにじっくり読んでる暇もないので、ずるずるとお礼を言いそびれてしまった。

ええとそういうわけで遅ればせながらありがとうございます。ただ折り返しの著者近影はちょっと違うんじゃないかという気もしました(←わさび)。

宮沢喜一というひとが亡くなって、彼についてのさまざまなことが語られるなかで、公的資金投入の問題もやはり話題になっている。あのエピソードを読んだとき、デモクラシーの時代における政治(的決断)というものをどう考えるのか、ということに思いを馳せたことを覚えている。間接民主主義とは、かならずしも白紙委任ではないけれど、もちろん旧体制の時代にそうだったような、命令的委任とは違って、われわれの選んだ、つまり「ある程度は」信頼した相手にたいし「理性の行使」を委ねるという側面がある。無論その相手が個人というよりは集団としての議会(複数形として代議士/政治家)であるにせよ。

そのさいにしかし選挙という手段を経由するのは、これはつまりぼくの印象では、その人に委ねることによって、より高い成功を期待するということではなく、むしろ失敗したときにそれを自分の失敗として納得するという仕組みの保証という側面を強く感じるのだ。

いやこういう風に考えるようになったのは非常に身近な経験からなのだが、単純にそれぞれの組織はそれに見合った代表者しか選べないということを痛感したということからなのだが。

ただ宮沢という人を見ていると、別の意味で俗にいわゆる高級官僚と呼ばれる人への信頼に近い種類の信頼を感じてしまう。つまり選挙を通じて選ばれた、われわれの代わりに失敗する者というよりは、その見識や知的能力において卓越しているがゆえに、そしてそれが日本という国、組織としての日本が育成した見事な作品であるだけに、どこかで成功を期待して委ねてしまいたいタイプの信頼だ。

もっとも、あの人たちは、通常の制度と手続きにおいて生みだすことのできる(身も蓋もなく言うと現時点では学校制度なのだけれど)ベストの作品であることは確かだ。で、そういう人物がもし失敗したのであれば、それもまた、とりあえず現時点での日本人の限界として甘受せねばならない限界であり、そしてその失敗も(批判と検証と監査が必要だということとは別に)われわれの失敗として納得しないといけないものであるような気もするのだけれど。まあそれはともかく。それでも多少のニュアンスの差はあるとしよう。

考えてみればしかし、現在の時点では、たぶん行政の実働部隊である官僚組織になんか一種の歯止めというかブレーキ役の期待をしてしまっているからそう思うんだな。これはしかし成立の経緯からすると関係性が逆なんだよな。(ああそうか参院がだめになってるからか。考えてみればしかしあのアナウンサーとかみんな度胸あるよな。)

話を戻すと、国民の、とはいわないがぼく自身の個人的な信頼の根拠は、どう考えてもおれがやるよりはうまくやるだろう、というその卓越していた(とされる)能力にたいする信頼であって、むろん本人は選挙という洗礼をうけての政治家ではあれ、そうした種類の信頼、ある種の諦念を込みにした信頼とは多少ニュアンスの異なる信頼感を彼にたいしては抱いていたことは確かなのだ。その意味でたとえば、少なくとも部分的には宮沢喜一そのひとの手になるものとされるたとえば池田勇人の『均衡財政』などに書かれた、あの時期のアメリカとの厳しい交渉で彼が果たした役割の大きさは、その期待(ぼくは生まれてはいなかったが)に応えうるだけの能力を実証しているように思う。
つまり何が言いたいかというと、しかし公的資金投入のさいの宮沢そのひとの判断の仕方はしかしむしろ民主主義というものに殉じるという判断を彼が下したかのようにみえるということろが(いやほんとうはたんに言い訳なのかも知れないけれど)、なにか知っていて苦い果実を食ってみたという感じもして、皮肉といえば皮肉な感じがしたことはたしかなのだ。(それとも敗戦直後の修羅場を知ってるからどっかでどうとでもなるという太い気分があったのだろうか。)

おそらくそれは彼から感じる諦念あるいは断念、あるいは絶望といったこととどこかでつながっているような気もする。つまり民主主義はこのときの最善を目指す制度ではなく、ということは必然的に短期的な愚行を孕まざるをえない以上、それをどこまで甘受するのかという答えのない問いへの彼なりの返答が、そうした態度となってあらわれているのだろうと思う。

それはこれもまた興味深い書物であった、福本邦雄回顧録に書かれた、宮沢評、「ものすごく秀才だけれど、何と言うか「御家人くずれ」みたいなところがあって」という評価ともどこかでつながっているのではないかとも思う。

話はそれるけれどこの本は非常に興味深い書物だ。いろいろと思うことがあるので時間が許せば一度書きたいのだが、ひとことで言うと主人公になりたい人もそして組織人もフィクサーには向かないということだ。つまりフィクサーとは複数の組織を自由に横断できることがもっとも必要な資質である以上、自分が花を持っていってはいけない。なぜなら近代社会において実質的な仕事をするのが「組織」である以上、組織に仕事をさせておいてそこから成果を取り上げるような仕事の仕方をしていると、組織から信頼が受けられなくなり、つまりはフィクサーたる基本的な要件を欠いてしまうということになるからだ。つまりいわゆる成果主義とは異なった評価を許す仕組みなしには、こうした種類の機能を組織内に組織として定着させることは困難であるし、そんな困難をやるくらいならいっそ組織の部外者に委ねてしまうほうが面倒がない。コンサルタントとか。あるいはロビイストなんていうのもそういうタイプの仕事の仕方をするのではないだろうか。ある意味ではコミュニケーションしかしないというホワイトカラーの極限のような仕事であるにもかかわらず、それをはみ出してしまうというか。外側だけ見てゆってるからまと外してるかもしれないけど。それとvanishing mediatorとかいうの禁止。
表舞台 裏舞台──福本邦雄回顧録

表舞台 裏舞台──福本邦雄回顧録

ありゃもう「ひとこと」じゃないな。

そういうわけで、トクヴィルという非常に難しいひとの本を書いたうのちんの本の紹介をするつもりが変なことになってきているのだけれど、なんでこんな話になっているのかというと、政治家トクヴィルの政治と、そしてデモクラシーとの付き合い方というのにも一種独特なところがあるからだ。(そういえば彼はある意味で「御家人くずれ」なのだし。)

いやほんとうによく書く気になったなあ(しかもメチエで)と最初に思ったぐらいで、トクヴィルについての書物を書くことはほんとうに難しい。うっかり読んでいるとすーっと読めるのだけれど、そこから何かを論じよと言われると、はたと、困ってしまうところがあるのだ(そういう意味ではシエースと似たような感じもする)。書いたものにはあんましつけいる隙がないというか、非常に腕力を必要とするタイプのなんだろう、ecrivainかな、それこそトクヴィル風に言うとpublicistかな。前も書いたけど、うのちんというのはけっこう乱暴なんだよな。乱暴というか、腕力でねじ伏せるタイプというか。前に書いたフランスの政治哲学の本は、けっこうねじ伏せた感があったけど、今回は、対象の違いもあるのか、そんなにねじ伏せてはないかな。夏休みに、もうちょっと読んでみて考えよう。言わずに黙るというところもあるんだよな。

いっぽうそれとは別にトクヴィルその人の難しさというのがあって、それはこのひとが貴族でありながらデモクラシーというものと付き合うことを選んだ政治家であるという二重にも三重にもねじれた関係からくるところが大きいように思う。

うのちんの本ではそれは、トクヴィルを揶揄した漫画、カヴェニャック将軍を囲んでいる政治家の一群のなかに書物をもって佇んでいる彼の姿にあらわれているのだろう。行動する人である政治家であるにもかかわらず、集団の端で書物をもって佇む、民主主義の強いられた(?)伴走者。
かつて知識人であることはたしかに政治に携わることであり、しかも剣ではなくペンでそうするべきひとだったはずだ。だが・・・。おそらくトクヴィルはそういう伝統的な知識人の場所に止まりながら、同時にしかしそれが不可能であることをより強く感じているようにも見える。もはや書物を手にすることは政治とはむしろ距離をとることなるような種類のなにかであるような。たしかにそうした種類の知識人もあることはあるが、しかしそうした現世との離脱は、西洋の伝統では、たぶんネオプラトニズムのようなものを経由したりして、むしろ宗教的ななにかへと近づいてゆくことになる。だがおそらくそれはトクヴィルの取るところではなかった。
ただ、うのちんの本を読むかぎりでは、しかしトクヴィルキリスト教との関係も以前思っていたよりも複雑なところがあるようだ。ちょっとこのあたりとくにシャトーブリアンアメリカとトクヴィルアメリカの違いなんかと絡めて、聞いてみたいところ。

なんか変なことになってきた。いっぺんに色んなことを書こうとするからだな。ちょっと仕切り直そう。

行動なき政治とはなんでしょうか。公の議会に生き、ただしそこで公共のことがらにたいして効果的な仕事がなされず、ただ二人行動する力をもつ者(注:ギゾーとティエール)らに働きかけず、結集もしないという結果に終わる。明らかな矛盾ではないでしょうか。わたしたちがやろうとし、そう主張していることがらについての中心となる性格を欠いているのではないでしょうか。それはある人生を別の種類の人生に持ち込んで、つまり理論的観察を活動の人生に持ち込んで、二つの生を台無しにしてしまっているのではないでしょうか。これがわたしがあの議場にいないあいだ苦しみとともに自問し、会期が始まれば、いらだちと焦りとともに自問していることです。わたしはみずからを鞭打って、代わる代わるふたつの障害にむけて進んでいます。議会において孤立し、行動しないまま、苦しく、ほとんど耐え難いものの存在が、わたしを努力に駆り立てますが、唯一実効的な行動を行うことのできる二人の人間と共同して活動することが不可能であることをたちまち悟ってしまい、わたしは動きがとれないまま、自分の席につなぎ止められてしまうのです。正反対の方向に引き裂かれ、精力的で持続的な行動によって何かをなす以前に、疲れ果て、消耗してしまうのです。わたしは自分を非常に速く回転するけれど、歯車が欠けているために、何事もなさず、何の役にも立たない車輪になぞらえているのです。とはいえ別の時代、別の人びとといっしょにであれば、もっとうまくやることができたのではないかと思っています。けれど時代というものはよくなっていくのでしょうか。わたしたちが見ている人びとは、より優れた者に、それともよりひどい人物に代わるのでしょうか。