日常の備忘のために〜趣味とデモクラシー

神戸の帰りにToiに寄って、No Control Airを見る。かっこいいなあ。intelligentだよなあ。非凡なものを見るのはそれだけで幸せな気分になる。建築をまなんだ二人が作っていて、見るたびに服ってこういうものだったのかと驚く。
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「趣味」というのがあるなしというのは大きい。自分のことについていえば、いちおう自分の業界内ではきちんとした趣味判断ができているのではないか、と思っている。つまりどれほど著名人の書いたものでも、駄目なものは駄目、よいものは、よいという判断を日々実際にやっているという実感はある。もちろん、これはあくまで判断なので間違うこともある、というかけっこう間違いも多い。最初は駄目と思ってもあとで、これはそれこそ趣味の違いで許容すべきだな、というものもあれば、端的に間違った!ということもあるわけで、とくに誰かに賛成するかたちで、これは「よい」と思っていて、ありゃ間違った、と思うこともある。けれど、それはあくまでそう判断した「おれ」が「間違った」のであって、だからといってその「誰か」を恨むということは、まあない(と思う)。
それはネガティヴにいえば、ある種の偏見が染み付いてしまったということでもある。偏屈まではもう少し時間があろうが、いずれそうなるのだろう。けどそれは不可避であって、あれもよい。これもよい。と言ってるかぎりは、そこに趣味判断はない。(あれもこれもよいというのがうさんくさい感じがするのはそういうところ。なんか詐欺師っぽい感じがするのだよ。)そのかぎりで趣味判断の能力というものは、どうも存在するようだという感じがする。少なくとも自分の詳しい世界においては。だから別の世界にも同じような、説明しにくい微妙な感覚というのがあるんだろうなあ、ということも想像できる。
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ただ、どうも服とか、絵とか、そういう世界について自分の感覚というか判断力に自信があるかといわれると、弱ってしまう。あるところまでは、何となくわかるが、まだまだ名前とか広告(仕掛け)とかにやられてしまう。服を選ぶとき、ときどきmayakovに、それはインテリさんの服だといわれる。何かが違うみたいだ。そういえばむかし越前にバンドやってる奴らの間では、headmusicという言葉があるという話を聞いたのだが、わりとそういう感じなのだろうか。
たしかに服がほんとうに好きな人たちの服の着方と、全部そうではないだろうが、おしゃれなインテリさんの服の着方は違う感じがする(すくなとも男の場合)。もっとも服飾関係の売り子さんが達人とは限らないようだ。そういう人はしばしばカタログ好きであって服好きではない、ということらしい。見ている分には、なんとなくはわかる。けれどその違いを自分で服の着方として、実際に着てみるというかたちでうまく表現できない。
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スーツ系というかフォーマルなものはわりあいその辺りの差が出にくいようになってはいるのだが、私服になるととりあえずなにがかっこいいのかわからないけれど、このかっこよさの概念は俺にはなかった、というほどにかっこいいやつはいる。顔じゃなくて、服を着て、着たその全体の感じが。
だからそういうのと比較すると、しばしば上から下まで同じ某有名ブランドの服に身を包んだ学者なんかは、かっこいいより、なんか「あ痛たたた」という感じになってしまう。そりゃ上から下まで同じブランドの同じラインでそろえれば、まあ何とかなる(はず)で(ならない場合もあるんだが)、しかしそれでうまくいっても、それは他人の趣味を買っているのであって、本人に趣味があるわけではない。
こういう困難をなんとかクリアーする最も楽な方法に過激な服を着る(上から下までオレンジのスーツとか、逆に上から下まで真っ黒とか)というのがある。そうすることで、趣味判断につきもののある種の繊細さをなしにしてしまおうという戦略なんだろう。これは(インテリでは)美学系統のひとに多い印象があるんだけれど、もっとも残酷な瞬間にさらされることから逃げているという点で、なんとなく卑怯な感じがして賛成できない。まあこれは俺の趣味なんだけれど。(ちなみに僕らの世代だと女子は相対的に男子よりは試練を受けている。まあ結構好き好んでやってる試練だが。)
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最近、ようやく趣味らしきものは出てきたような気がするのだが、しばしば駄目出しにあってしまう。それは駄目とか、服はいいけど似合ってないとか。最悪の場合は(名前に)だまされている、ということになる。でまあ自分の業界でもそういうことはあるから、(あーあ、あれがいいと思ってるんだろうけど、だまされてるよなあ、とか)、そういうこともあるのかなとへこんでしまう。
たしかにしかしそういう服を実際に着て、別のものと比較すると微妙にいけてない感じが出たり、しっくり来ない感じになる。どうも落ち着いて冷静に見て、何かと比較するとわかるのだけれど、一から自分で構築せよ、となるとうまくゆかない。なにか重要な感覚を欠いていて、名声や広告にだまされたりすることになる。
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いちおう選挙というか、民主主義というのはこれと同じことが根拠になっている。つまり自分では正しい判断はできないが、正しい判断をできる人は選べるとか、選択肢そのものを自分で作ることはできないが、出されたいくつかの選択肢の中から選ぶことはできるとかいったことが選挙の合理性を保証している、ということになっている。(まあアリストテレスとかに遡ってもいいのだが、ギリシア語で実際に読んだわけじゃないのでやめておこうっと。)
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しかしともあれ、そうした自分では一から作り上げられない何かを見ると、人はなんだか、嬉しくなるものではないだろうか。趣味というのはわりと生まれ育ちが決定するところがあるんだけれど、それでも丹念に対象を見てゆく癖をつけると、ある日感動は、できるようになる。
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画家やデザイナーがみんなええとこのボンとは限らないし。
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中学生の頃読んで退屈だった小説を読み返してみて、なぜこれほど素晴らしいものに感動できなかったんだろうと思うことがままあるが、そういう感じ。だからといって作家になれるとは限らないし、くずをつかまされないとも限らないのだろうが。
こういうのは受動的な能力なんだけれど(美学だからね)、ないよりはあったほうがいいよな、と思う。欲張りだが。
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だから俗流ブルデュー風にいうと、趣味判断というのはしばしば階級(階層でもいいけど)に帰属するものとされていて、まあ八割型そうなんかもしれないとも思うのだが、しかし、必ずしも階級の問題へと全面的に回収することのできない、何かがあるような気がする。「大衆」みたいなものの嫌な感じに日々つきあわせられながらも、どうも民主主義を否定しきれない感じがするのと、それはどこかでつながっているように思う。
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うーん素朴なことを言っているように思うがLefort流でなくてもなんか言えないだろうか。この線は素朴というか温和というか、しかし、まあ俺はどうせ前衛じゃないし(ありゃ才能だ)。こういう路線でいいんじゃないかと思ったり思わなかったり。プチブルだなあ。でもプチブルがいなかったというのがこの国で。田中康夫の孤軍奮闘。全面的に賛成できないんだけどな。だから江藤淳田中康夫っていう線の可能性はまだちゃんと追求されきっていない。この路線はへんに力んでもしょうがないんだよな。
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服に関していうと、でもまあヒカルさん(これは男性)は例外だな。いやな感じの自己意識がないと、どんな服でも着れるという特別な例。マックィーン着て堂々としている奴って、インテリ業界以外でもあんましいない。普通ないよな。着られてないし。ルックスがバリ島の王様だし。
そこから得られる教訓は、こういうことにぐずぐず悩まないで、さっさと自分がいいと思うものを着る、ということに尽きるのだが・・・。自信がないと世評はなかなか無視できぬもので・・・
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個人的な経験からつらつら考えてみるに、たぶん「失敗」した回数だな。どうも大事なのは。負けない喧嘩はみっともない。