「彼ら」が

やったことの「責任」を負わされて死んだのはだれだ。「彼ら」は死なない。責任をとることもない。イラクの人々に銃を向けられることも、向けることもない。ただきっと、遠くないある日、彼らはすべてを投げ出すだけだろう。そしてすべてを忘れるのだろう。
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ぼくたちが忘れてはならないものは、なんだろうか。怒りだろうか。呪詛だろうか。
どうすればぼくたちは冥福を祈ることができるのだろう。
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報道特集をみる。この戦争にもう大義はない。失われたにせよ、はじめからなかったにせよ。
「彼ら」のためにイラクで死ななければならなかったふたりが伝えてくれたはずのこと。
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かしこ競争はもういいよ。それは年金の問題でやってくれ。
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記者会見にからむ違和感。
神戸ではチャンネル権はないから、記者会見をまじまじと見ることになる。
記者会見というのは何事かを公的に発表する場ではないのだろうか。
ふたりのジャーナリストの家族はいったい何をあの場で求められていたのだろうか。三人の人質の家族の会見の、その意味はよくわかった。(俺だったら小泉の首と交換で解放してくれまいか、ぐらいのことは言ったと思う。総理大臣の首なんていくらでも交換可能だ。)
けれど、今回、若い方のジャーナリスト(たしか33歳ではなかったか)の母親のなんともいえない戸惑いの表情ばかりが印象に残る。いったいあの場で何を彼女たちは公表しなければならなかったのだろうか。いまだにまったくわからない。
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大義のない戦争は国民的な水準では長期的にペイしないんじゃないだろうか。もちろんペイする部分集団はあるだろうが。そろそろ撤退の時期を(もちろん公的な議論のかたちで)探るべきであるし、日本が公的にそれを模索することは、アメリカ(すくなくとも国務省)にとっても実は別の望ましいオプションというか、別の可能性を検討するきっかけになるはずだ。やるならいまなのだが。たとえば政府にそういう腹芸はできるだろうか。そういうコネクションはあるんだろうか。