未来世紀ブラジル

チビ太は目が覚める直前に両手をぶりぶり振り回している。嫁はあれはきっと、「きりんさん」とたたかっているんだという。「きりんさん」はチビ太にあいさつをしただけなんだけれど、チビ太は「たっ戦わなきゃ」と思って両手をぶんぶん振り回しているんだという。

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ふだんは新聞を取ってないから読まずにすむんだけれど、嫁の実家に行くと新聞があるから、ついつい見なくていい記事をみてしまう。まだ自己責任がどうだとか、さも大事そうに言っている記事を読んでしまい、すごく損した気分になる。
大阪の24時間開いているので有名なスーパーから異臭騒ぎがあったらしい。だからといって、だれも某スーパーに行って異臭騒ぎにあうのは自己責任だとはいわない。天竜川の中州に車が何台も取り残されたらしい。でもだれも自己責任だとはいわない。くだらない事件だから? そもそも事件の質が違う? まあそうだろう。けれどももっと別の理由があって、それはたぶん、某スーパーの事件にも、天竜川にも「サヨク」も「アサダアキラ」も絡んでいないからだ。
大阪のディープ・サウスに住むぼくには、スーパーの異臭騒ぎは結構深刻な問題なんだけれど(いったい何がおこってるんだ?)、東京の僕のよく知らないロンダンというところでは、もっと大事な、たとえば自己責任の問題があって、両手を振り回してたたかったり、マキビシを撒いたりしないといけない、真剣な戦いがあるみたいだ。たしかにサヨクやアサダアキラはきりんさんにおとらぬ手強い敵だ。
団塊の世代と呼ばれる人びとがいたらしく、その人たちのなかに、ワタシにかかわる問題は直ちに政治的、つまり公共の問題だと考えたひとがいたらしい。なるほどそういうこともあるのだろうな、と思うけれど、その人たちが生まれて20年経って生まれた僕からすると、まあちょっとまってくれ、と言いたい感じがする。
その人が僕にとっての顔の見える友人であるかぎりで、きわめて私的なことも、その友人の問題にとどまらない、僕にとっても重要ななにものか、(僕にとっての)政治的ななにものかに変わるかもしれないとは思う。けど、どうやら何百万人も読むような新聞のうえで、見も知らぬ人の「きりんさん」との戦いを誇らしげ報告されても、そうかこのひとには大事な問題なんだろうなあとは思う。けど、それって金とってやる商売じゃないはずなのにな、と思う。売れる限りでたしかにそれは商売ではあるのだけれど、商売で飯を食ってきた一族の末としては、商売道徳というのもあるよと言いたい気分がすこしある。商売道徳ってのは、西欧風に言うと、市民としての倫理でもあるんだよな。
ただ、そんなことより、もっとまずい感じがするのは、おそらくぼくらがルサンチマンと呼んでいるなにかが、どうもこの辺に生息している感じがするからだろう。
(それと編集者には金返せといいたいかな。ああ今回は金払ってないか。)

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実はこれとよく似た構造は、マイノリティ問題にも見いだされるのではないか。たとえば、マイノリティ集団内部の(なかば私的な)問題を当事者以外に伝えようとする場合、かなり説明しないと理解してもらないということが、当事者たちのあいだで了解されているならば、そうした意識は自堕落な一般化にたいする歯止めになるだろうと思う。というか、そうでないとまずい。まずは話を聞いてもらい、問題を共有してもらうという、なんらかの努力であったり戦略であったり、そういったところから始めなければならない、そのことがどこかで意識されているかぎりで、それは政治的かつ公共的ななにものかになりうるのだろう。
私的なことがただちに政治的(公共的)であるというものの言い方は、私(たち)のもんだいが、ただちに、自動的に、彼らあるいはみんなの問題にはならないことをどこかで(経験的に、あるいは理論的に)知っている者の戦略的な物言いだと思う。

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「いままでは私たちはあまりにも差別されてきたと、親の世代は言い続けてきた。それは確かに事実ではあるのだけれど、あまりにそれを強調することは、時には息苦しさを生み出すのではないか」と、ある集団の内側にいる人が言う時、それがある切実さをともなった問題でありうることは実感としてわかる。けれどそのことをまた外に向かって、無媒介に公共の問題として語られると、すこしそれは違うんじゃないかと思う。友人としてそのことのややこしさや、難しさについて、そのことのもたらすジレンマについて、真剣に話を聞く用意はあるし、その程度の想像力はある。けれどそれを一足飛びに一般化して、公共の問題として考えることは問題の繊細さを却って損なうことがあるんじゃないかな、と思う。
マイノリティ集団であるという自覚は、よくも悪くも、そういう一足飛びの公共化がとても困難な場所に置かれているという自覚でもある。あるいは逆に、そうした自覚が失われたときに、そのひとはマジョリティの一員となるのかもしれない。
「このぼくの問題は、それ自身、たちまち、直接に、公共の問題だ。」
たしかにそれは日本の中心ではそうなのだろう。東京にきた台風は、どんなにちっぽけでも全国ニュースだ。
でも世界の中心にあるらしい、日本という国の中心にいない僕には、そう言うセリフはなかなか言えない。

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嫁によると、きりんさんは、ほんとうはかばさんに会いにきたのだけれど、チビ太が道の上で手を振り回しているので、困ってしまっているらしい。