マスメディアという病

つまり、もっとも病んでいるのはメディアのなかにいる(それにかかわりすぎた?かかわっている?)人間なのかもしれない。病んでいる、という表現が適切かどうか自信はないのだが(いや、大学という業界もそれなりにたいしたものですが。まあ天下り先ですから同じような人種なわけです。が、持っている権力が限られているせいか、どうにもちんけで)。
殺人者の精神科学
良い本だと思う。
けれどいっぽうで、「心理学」的な説明の怖さはこの著者からも感じる。同じ著者が(同じ著者なんだよな。それともまったくの別人なんだろうか?)、いま出ている雑誌の「田中康夫知事の支持率はなぜ全国最低になったのか」と題された単文のなかで、長野県知事氏の性格分類を、ぼくの目から見るとかなり無防備に(それとも病跡学やそれに類するものとしてはあのぐらいでじゅうぶんなのか?)やってしまっているその落差には、ちょっとどう考えていいのか途方に暮れてしまう。
著者はもちろん知事氏のそれは病的なものではないと(著者が知事氏の診断をしているわけではないから、と断りつつ)書くが、そう書くことが逆に、それがいささか病的なものと疑われる可能性をそれなりに(じゅうぶん?)もっていることを示唆し、読者がそう理解してくれることを期待さえしてしいる(ようにみえる)。

上にあげた本はよいほんであると思う。ただしきびしいことを言えば、もし著者が臨床心理士ではなく、ジャーナリスト、あるいはルポライターという肩書きであったとしたら、ここで述べられている結論の導出にいたる手続きは十分であったかと言われると、正直、そこは微妙だ。つまり、おそらくここで述べられている結論(あるいは「分析」?)は確からしいように思う(とりわけ町沢静夫氏なる精神科医への批判など)。そう思うが、読者であるぼくにとってそれは著者が経験を積んだ臨床心理士であってこそなのだ。著者がこの本の中でも何度か紹介している彼の具体的な実践の経験とそれに裏打ちされた判断があってこそ、その実践にかかわる問題についての、その判断に一定の確からしさを感じるのだ(たとえば「ニュー保安処分」についての問題点の指摘など。ただし一方で精神科医と法律家(裁判官)とのあいだのこの誰が決定するのか、という問題については、まんまフーコー的なのでそれはそれで興味深い。)

しかしこのように、確からしそうだとは思いながらも、バスジャック少年の両親にたいする批判については、一定の留保をともなわざるを得ない。ここには「調査報道」という観点から論じられるべき部分がいくつか存在するからだ。いくらか「薮のなか」めいた事件のその薮をいくらかなりと明るみに出し、あるひとつの蓋然的な事件の解釈として「母子関係」をもってきている以上、やはりなにがしかの「事実」による裏付けが求められるであろう。そして新聞記者あるいはそれなりの経験を積んだルポライターでない以上当然ではあるが、それは必ずしも十分とはいえない。(なるほどその可能性はありそうだ、とは思うが。)
もっともそれはこの本の(致命的な)傷ではない。なぜならこの本の目的のひとつは、マスメディアに流布した数多くの「診断」が間違っている、すくなくとも不確かであることを示すことであって、それには別のもっと確からしい診断ないしは解釈ないしは事実の可能性を示せばそれで十分だからだ。それはかなりうまくやれていると思う。そう、すくなくともそれは「薮のなか」であることは確かなのだ。報道されているほど、あるいはメディア精神科医がいうほど、単純素朴な事件ではなく、精神病患者は隔離しなければならない、という「回答」がこの事件の教訓ではまったくない。

だがしかしそれがマスコミ有名人(としての知事、田中康夫)の、しかもその報道に多くが基づいているように見える「調査」から判断(診断?)される「性格類型」となると、著者の本業ともあいまって、その内容は、いささかぼくには逸脱が過ぎると感じる。知事氏は著者がいうように、そのような人物かもしれない。そうかもしれないが、それだけのことを「メディア」に公表するには、いささかぼくは必要な手続きがそこには欠けており、かつ著者の「専門家」としての立場は、その場合、いささかという以上に悪影響を及ぼす可能性が高いと思う。
というのもこの社会は、そのような人物にはとうぜん公の問題を任せるべきではない、という短絡した結論が導き出されうる社会だからだ。
いや、つまり(同一人物であるとすれば)この著者がいうように、ある政治家が行う政策あるいはその手法において問題があるとして、あたかもそれが(うんざりするほど曖昧な概念だが)パーソナリティの問題に帰着するかのように示唆することは、やはり物事を悪いように単純化しているとしか思えない。そしえそのような悪しき単純化の問題こそを、著者自身が上に挙げた本のなかで書いて(嘆いて)いたのではなかったか。(にもかかわらずなぜ? どのような誘惑?)
著者の論じる政治問題の多く(立法権力にたいする執行権力の優位)が、かならずしも長野固有の問題ではないだけにそれはとりわけ強く感じる。

(あと、見過ごされている問題として、市町村合併による「地方自治体」の規模拡大のなかで、現場というものが、もともと限定されている県(や府)という政治および行政単位が何を担って行くべきなのか、という問題もある。つまりそれを安楽死させ、国の出先機関として縮小させてゆく(総務省?)路線にのっかるのか(定年も近いし)。あるいは積極的に仕事を探して、あらたな「地方自治体」として別の可能性を模索してゆくのか、という問題もありはしないか。つまり東京都とそれ以外は、まったく違う機関なのだ。)

(臨床)心理学あるいは精神分析ないしは精神医学なるものは、しかしなかなかにやっかいだ。

いや、やはり(マス)メディアというものがやっかいなのか?

そうメディアと「心/精神/内面」を触る商売、という、おそらくこのふたり(ふたつ?)のあいだには、密接な関係があるんだろう。分析家たち(へ)の誘惑。なぜ彼らは(の少なからぬ者、あるいはすべて?)は、メディアとの関係においてつねに踏み外すのか? 「分析」が必要かもしれない。(心理学的/精神分析的な?/でない?)

それともやっぱり同姓同名の別人なんだろうか。

うーんいい本だと思ったおれの目が節穴なんだろうか。いい本だと思うんだがな。