購買拒否

ところで腹が立つのはオリックスだ。読売も報知も買わない、買うときにはそのきになればふたつ、みっつと増やしてゆけるが、買わないという行為は一回やったら終わりで、さらにそれ以上増やすことができないが、まあいい。
近鉄も、通勤していればどうしても乗らないといけない場合があるだろうが、なるべく地下鉄を使うとか、近鉄系列のデパート(そうだ不動産も。そんな金ないけどな!)では物を買わないようにするとか、まあ多少やりようはある(もう一生買わないからな)。
問題はオリックスで、買うものがない(でもまあ中村勝っちゃんを引き取ってくれたからいいか。ついでに岡田も引き取ってくれるといいんだが。あっ権力に片思いしている3Kスポーツ専門誌も)。購買拒否できないのが悔しい。なんかいい手はないか。
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というかそもそももう新聞は買ってない。テレビのニュースも見ないことが多い。とくに4チャン(関西では毎日放送、東京ではTBS)は見ない。テレビのほうはきっかけははっきりしていて、阪神大震災だ。それまでもあまり見なくなっていたのだが、そこでもう積極的に見なくなった。チャンネルを回してあの顔が出てくると反射的に変えてしまう。これはもう理屈の問題ではない。関西ではそういう人は多い。あと小選挙区の導入のときの経緯もきっかけとなったかもしれない。べつに小選挙区の旗を振ったから悪いというのではない。馬鹿なんだから間違えてばかりなのは折込済みだ。よくないのは、小選挙区導入の旗振りを批判されて、私には、そしてメディアにはそんな影響力などない、われわれは無力なんだと被害者意識丸出しで答えたことだ。
キャスター氏は読んだことがないのだろうが、丸山真男という人がいて、彼の書き物のなかに、戦前日本の無責任体制に触れて、政府や政党、メディアなどの責任ある地位あった者らが、ことごとくみずからを無力な被害者としてみなしていたことを、批判的に指摘した「有名な」文章がある。あきれるのは、そのキャスター氏が丸山真男と私的な交流があったことを嬉々として書いていることだ。
さすがにそんなおっさんのたわごとにはつきあえない。

新聞についていえば、なんというか、自分自身が年をとって保守的になったということだろう。いわゆる一面、政治面はもうずいぶん昔から読んでなかったが、何年前くらいからだろうか、いよいよ、その大衆路線には、ついてゆけなくなってしまった。
本好きだから、書評欄に読む記事がほとんどなくなってしまったことがきっかけかもしれない。いつ頃だったか週刊誌を中心に新聞の書評欄が難しくてわからないという記事が繰り返し載った時期がある。その批判が影響を与えたのだろう、程なくして、文化欄からは文化というものが消えてしまった。
分からないことにたいする耐性が低い、というのだろうか、すぐに分かるようなことっていうのは、なんというかもともと頭の中にあった臆見opinionを確認しているだけじゃないのか。まあ自尊心がことのほか大事な人はいるから、そういう人が増えればそこを相手に商売をするという選択もありだ。(コンナトコロニモユトリ教育ノ弊害ガ!)

巨大新聞にサブカル情報を教えてもらおうとは思わない。そういう種類のものは現場で見つける。実際にそこに浸るか、あるいはせいぜい口コミか雑誌か、まあフォーマルでないメディアを通じてだ。耳に入らなくなったときは卒業だ。あれは9割を占めるクズに触れてナンボだ。上澄みだけでは意味がない。
複製芸術は文脈が内容の一部になっており、ジャンルそのものに触れておかないと、個体だけ見ていてもあまり意味はない。

本屋に平積みになったり、雑誌に広告が出るような本を紹介するのも同じだ。そんな本は遅からず南大阪市の駅前書店にもやってくる。(たぶんブックオフにも。)年をとるともうそういう種類の本はしんどい。べつにもうどうこうしろというつもりはない。リスクを負っているのは売っているほうだ。好きに商売すればいいと思う。商売はそういうもので、新たに入ってくる客があれば、出てゆく客もある。
出てゆくほうになったということだ。

そういえばこのあいだ見本にということで新聞がポストに入っていたが、とうとう最後まで開くことはなかった。子供の頃、クラスで新聞を読んでいたのはぼくとヤマチャンだけだったのに。ゴミの日になってポストに入っていたままのかたちをした新聞に気がついて驚いた。

さようなら。すこしさびしい気持ちがする。