美と略奪

連休はなかった。予定より3週間も早く生まれてしまったからだ。
連休の最終日とりあえず退院。早産だったからとうぜん未熟児であったが、外側から見える範囲では、母子ともに問題はない。ほっと一息。すでに自分の人生が思い通りにはならなくなったことを実感。与謝野文子の印象深い文章を思い出す。

敬愛する日本の神話学者Y・Aはご長女の誕生からしばらくして、略奪する側から略奪される側に移ったという意味のことを口にしていた。そのことばのなかには、若々しい喜びがこめられていたことは確かだったが、それよりも<所有>を少しも想定せず<前進>してきた結果、思いもかけなかった立場にまわったという精神の高揚も感じられた。氏はやはり武人<guerrier>であったのだ、というのがその時の私の感想だったように覚えている。何かをーこの際は娘をー持つのではなく、攻め込むかわりに、今度は自分が攻め込まれる側にまわったという強烈な認識が感じられた。

與謝野文子『美と略奪ー詩的生態学へのまなざし』筑摩書房1991
もっとも、ぼくは武人ではなくせいぜいこそ泥でしかないのだが(犯した犯罪は「食い逃げ」とかだもんな)、まあその伝でいくと食い逃げする側から食い逃げされる側にまわったわけか。

大阪(堺)と神戸を行き来する電車の中でかろうじて授業の準備。Robert Castelの本はLa nouvelle question socialeの後半の方のエッセンスをさらっと要約した、入門書としてはかなりよくできた本だった。第三章あたりのルサンチマンの分析など、特別なことは何も言ってないが、誰にでもわかって議論もしやすい。おすすめなり。フランスの秀才の偉いのはこういうところだね。フランス語もわかりやすいので社会科学系の講読の授業などに最適なのでは。
連休中はかろうじてそういう本がよめただけ。
神戸の帰り玄田有史の新刊をみつけて買う。読む暇はあるんだろうか。しかし『ジョブ・クリエイション』って。装丁も、もうちょっとなんとかならなかったのか。