オシム

どうにも大きなメディアが問題であるような気がしてならないのだよ。得にならないことをやり続けるというよくない性向をメディアは持っているようでもあるからだ。(サッカー日本代表の)オシムの記者会見をわりあい注目して読んでいるのだけれど、民族対立に苦しんだ彼が折に触れて、メディアに向かって訴えているのはそのことを自覚してほしいということだ。(民族対立もメディアによって増幅されたと彼は考えているのだろう。)だが最初は好意的だった各紙も、じょじょに揚げ足と、ネガティヴ・キャンペーンに終始した、トルシエ時代に戻る気配を見せているから、そのメッセージは伝わっていないし、むしろ反感を買っているようにも見える。どうにも生きている世界が狭いような気がする。
彼が旧ユーゴ分裂のさいに味わった苦しみを知っていればもうすこし真剣に受け止めてもいいはずなんだけれど。

これは読む価値があるよ。

感銘を受けたのは、オシムはリスクを冒して攻めるサッカーを志向しているのだけれど、安全で守備的なサッカー(たぶんロングボールを放り込むような)をしないのはなぜかと聞かれて、そういうサッカーをしていたら(プロ)サッカーそのものが危うくなってしまうからだ答えていたことだ。彼は美しさというような言い方をしていたと思うけれど、そういった価値を追求し続けていかないと(いい歳をした大人が真剣になるものとしての)スポーツがスポーツでなくなってしまうと考えているようだ。勝つという制約の枠内で、リスクを負いつつ、しかし、それに成功すれば賞賛せずにはいられないような、創造的なサッカーを作り上げることがオシムの理想である。
ただし、そうした理想の追求は非常に困難な作業であり、きわめて脆いものであると彼は見ている。入念に組み上げられ、多大な、目に見えない労力が投入されることで維持される、そうした理想のサッカーのための土台は、しかし人が壊そうと思えば容易に、ほんのちょっとした悪意でたちまち崩れてしまうものなのだという冷徹な認識も彼は同時にもっている。感銘を受けるのは、彼がそれを知りつつ新しいサッカーの創造をやめないことだ。そして彼はいままでのところその理想を追求するポジションに居続けてもいる。(カッペロが尊敬されないのは、彼が単にフリーライダーに過ぎないのではないかという疑念を払拭するような見るべきサッカーをやっていないからではないのか。)
それが脆いものであるからこそ、サッカーの理想を追求し続けるのだという彼の回答にはやはり感銘を覚えずにはいられない。こういう目線の高い人たちがいて維持されているものがあるのだということを、オシムを見ていると信じたくなる。
が、えてして人はそういうものをこそ壊したいものでもあるのだ。だから甘くてはいけないのだろう。