サッカー雑記

昨日のエントリーを書いた後、オシムの話を「わざと」漏らしたのは、むしろ別のグループが推している対立候補への働きかけを邪魔するためという可能性にも思い至る。
世間ではもっと単純に、一次予選敗退の責任から目を逸らすためだろうとの説も唱えられているが、いくら何でもそこまで下賤の輩ではなかろうと思いたい。いい年過ぎるぐらいいい年なのだから。

しかし忘れられている可能性として、本当にうっかり漏らしたという可能性で、もしそうならいくら何でもホントウニヤバイ。

それはそうとしてサッカーでは「自由(ジーコ&川淵)か組織(トルシエ)か」という対立軸で考えられているようだが、ジーコはまあともかく、腕一本と口ひとつでアフリカを放浪した、あの抑制の足りなそうなやんちゃ坊主のトルシエと、強面でならし古川では社長になろうとしていたという川淵氏とを、そういう対立軸で比較することは適当なのかどうか疑問なしとはしないのは、そういう方向性の報道が数多くあったからそういうのだが、電通やマスコミからは、きっと「組織(和をもって尊し)か自由(わがまま)か」というふうに見えていたはずだからだ。

しかし一般的に言って組織を個人で突破するには、組織の権威者あるいは組織そのものに楯突くことが必要で、たしかにうっとおしいけれど、和を以て尊いこの国でも予算制約の厳しい界隈では、相手も自己主張をすることを前提にふっかけるところはあって、自他共に認める天才であったり、やくざであったりしないかぎり、ときどきはそういう厳しい自己主張を強いられる。強いられるというのはこの国に生まれたせいか、やはり人並みに自己主張はしんどくて、できればせずに済ませたいからなのだが、しかしなんらかの意味で権力者でなければ、存在を無視されてスルーされてしまい、スルーされて放っておかれればよいが、社会ではしばしば奴隷労働を押しつけられたりするので、裁量の余地を残そうとすると自己主張を強いられざるをえない。

そういう意味で功成り名を遂げて、もうそういう自己主張はせんでいいというか、相手をスルーしたり無視したりこき使ったりする側だったはずの、メディアや組織の人たちにとって、トルシエたちのチームが気にくわなかっただろうことはよくわかるが、アレと喧嘩して勝てないようだと、この国のしきたりの通用しないよそ様と取引するときには口や腕の代わりに、たぶん金にものを言わせるしかない。金にものを言わせるというのはボラられているだけの場合もあったりして、その場合尊敬されないのはしょうがない。

トルシエというのはフランス人から見てもなかなか自己主張の強い人間だったそうだが、互いに罵りあったりして、そういう意味では対等な関係性が成立しているようでよかった。ケーベル先生とかお雇い外国人の時代でもないのだから、いまさらクラマーコーチがどうとか言っても始まるまい。だからベンゲルとか、もしそんなことになれば文句はないが、あんなに功成り名を遂げた人が東洋の辺境までくるはずはないし、もしきたとすれば「アンクル・トムの小屋」みたいなもので、とても対等な関係性が成立するとは思えない。ただそういう点では、ジーコというのは試合で唾はいたり、多少お金に一生懸命なところも噂されたり、Jリーグよりも郷土の祭りを優先させたりして、大人げないところがたくさんあるのはよかったけれど。