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わたしを離さないで

わたしを離さないで

非常にレビューの書きにくい書物。舞台設定はわりあいと早い段階でわかるし、別にばらしたからといって小説全体からすると、どうでもいいように思うのでかまわないような気もするが、解説者も禁欲しているし、そういうのが面白い人もいるだろうから、書かぬほうがいいのかもしれない。推測するに、英語圏のひとは、その設定については、たぶんもっとわかりよいだろうと思うが。構成も練ってあって二回ぐらい読むとよくわかるようになっている。

海辺のカフカに似たようなところもある。フェミニスト二人連れのシーンと比較することもできるだろう。トミーがよく書かれていることも含めて。
政治的(社会的?)には逆になっていて、それがたぶん好感にはつながっている。
が、より深く意地が悪いともいえる。どうも意地の悪さと観察眼というのはつながっているのだろうか。

細部という言い方があるが、どうもその比喩は適切ではないような気がする。見ているところが違っているのだろう。リアリティのあるなしでいうと、全体的にはおとぎ話で、ずるいといえばずるいのだが、まあ中に出てくるトミーの描く絵のようで、妙なリアリティを作ってしまっている。観察力でもあるし、それを変形する想像力でもある。見ている角度の問題とも言えるが、いまは「意地の悪さ」としておこう。見ないで済むものを見ているのだろう。優しく書いても、あるいは優しく書くから、そういうところに目がゆく「意地の悪さ」(この表現はこれでいいのだろうか)をつい思ってしまう。
ゲームに積極的に参加せず、一歩引いているということかもしれない。ゲームをしながらいつもべつのことを考えてしまうことを続けているとこうなるのだろうか。

それにしても細かくいろいろと仕掛けている。冒頭サッカーにからんだいじめがあるが、そのひねりかた(役割の逆転)とかまあよく考えてある。このへんは頭の体力だなあ。耐久力というべきかな。(つまりこれは映像にしてみたとき非常に異様な絵になるはずで学校の異様さというのをよく表すはず。)
収まるべきところにピースを納めているという点ではずいぶんと前に書いたケーキ屋さんの漫画と共通するところもある。なんつうかこっちのほうが甘やかしは少ないのだけれど、しかし共通点もあるということのほうがいまは気になる。
もやもやする。
引用したいところもあるがやめておくべきだろうな。トミーの傷口を心配したあとのシーンにはつい感動してしまった。それを書きたかったのではないかとすら思うほどに。そうではなかろうが。

ドゥルーズのことをふと思い出した。内容についてではなく、こういうジャンルの特性について考えていて、ふと。動物的であるということが、物語的ではないということであるのか、とか。いやそれはよく言われているのだが、動物的という言葉の意味の取り方が逆であるというか。人間的なものと動物的なものの非常に優れた翻訳者であるという気もする。いや小説家というのは。学者というのはあまりにも人間的なのだふつう。凡庸なことを書いてるな。優しさというようなものがなぜ発生するかということなのだが。見えていて書かないのはやはり残酷な感じもする。ああ、甘くてはいけないのだが、人間のくせに優しくなくてはよい小説家になれないのではないか。
西原理恵子が好きなきしどんは読むといいのではないか。西原理恵子はちょっとそういう意味では甘いところが勝ってしまっているような気もする。前に美化と書いたことはそういう感じ。

ふと学者でそれに近いのはダーウィンとかそうだなあと思った。あれもうちょっと文章の上手なひとが訳すといいんだが。