批判、と書いたけれどいまの日本語の語感からいうと適切ではなく、やはり「懐疑」とすべきだろう。それが懐疑であるがゆえに、それから後のしばらくはすくなくともほんとうに理想なのかもしれないとすら思える社会を描けたわけであるから。

正しいかどうかは理論的には決定しえないまま、しかし現実においてはなにかを選ばざるをえないときに、この懐疑というスタイルが意味を持つ。何かを決しえなかったからではなく、決してしまったがために懐疑は行われるとさえいってもいいかもしれない。
そうであればシュミット的な友敵理論との近さにもかかわらず、やはりしばしばそれが正当化となって、あるいはまたそれが語られるさいの性急さとはひとまず区別しておくべきだろう。そこにはなにか時間的な前後にかかわるトリックがあるようにも思う。

イシグロのこの書物がデストピアに思えるとすると、しかしそれはほとんどの点において状況の変化によってでしかないことは注意すべきだろう。状況の変化、つまりモアの夢のある程度の実現である。労働、そして分業を基礎とした社会が、ある程度達成されたという変化だ。そこにおいては「能力の差」、あるいは「適性の違い」を除いて、人びとを区別するものはない平等な世界であり、それぞれの人びとの性向に従って、あるものには職業教育が、あるものにはさらに高度な教育が与えられる。分業の中で人びとは分際を守り、成長すなわち上昇という社会を不安定化させる要素は注意深く排除される。自己の達成はあくまでそれぞれの分際の内側に押しとどめられる。

語り手が怒りを覚えるシーンはとりわけ重要であるようにも思う。怒りが必要であると思われたのだ。その意味でトミーは書き手の分身なのではないか。

この本に書かれた傷口についての記述、そうではありえなかったし、そうではありえなかったからこその現在があるにもかかわらず、しかしもしそうであったとしたらと「悲しみ」とともに過去を振り返ってしまう場面がある。悲しみは必ずしも懐疑と同一の作用ではないのであるが、しかし共通する性向がそこにはあるように思える。思えるがそれは正しいだろうか。