大学全体

の引っ越しというのはともかく得難い体験だ。が、もうすでに一週間。まだ旧研究室に居座りっぱなしである。いつでも梱包して、という状態で放置されたまま。しょうがないのでぼちぼち翻訳などをしたりするも、上と下と横から、ドリルの音や人の話し声が聞こえてくるとなかなか落ち着いて仕事ができない。

得難い体験であるというのは、実作業がまた面白いということはある。会社などの引っ越しと違うのは書類が多いだけでなく、例の本というやつの存在だ。研究室ひとつひとつはそれほど大きな部屋ではないが、昔の大学の下宿屋のような、やわい家においたらたぶんそれだけで床が撓むような頑丈な本棚が、壁面の全部にあって、それにみっちりと、本が入っているわけだから、できあがる段ボールが半端な量ではない。あっというまにそれぞれの部屋から出た段ボールが廊下をも埋め尽くす。

さらに共用スペースではほんとうにいろいろなものがいろいろなところから出てくる。古い学校だから昔のものはひじょうにおおらかな気持ちで個人情報を集めていたりもしていて、そういうものが出てくるたびに、騒動というほどではないが、まあおいそれとは捨てることもできないので、一手間かかることになる。

しかし面白いのはこういうときでも人間で、まあぼくもそれなりに中堅という立場になってしまったからだいたいの人となりは把握しているつもりなのだが、やっぱりそれでもおもしろい。面白いというか若干呆れ気味でもあるのだが。まあそういった感情を排すると、やはり、相当に大学人間は子供っぽい。子供っぽいと言えばまあぼくもそうとうに子供っぽいが、どうも四十代後半以上は、ぼくの知っている他大学の人と比べてもかなりそうだ。うすうす感じてはいたが、どうもその子供っぽさにも世代差がどうもありそうだ。わりと小さく完結した世界での世代差ではあるのだが。
どうもぼくの年齢前後から就職のための競争が激しくなっていたし、それに就職したらしたで、大学「改革」とやらがはじまっていた。また。研究費をひとつ取ってくるにも、えらく書類を書かねばならなくなった頃でもある。大学が右往左往しているなかで職業人生をスタートさせたせいか、受け身と言えば受け身だけれど、どこかでそういうものだと思ってしまっているところはある。この10年ぐらい、そういった大学の変化に、諦めつつそれぞれに適応してきたという感じはある。
むろん同じような状況に上の世代も置かれていたはずなのだが、どうもその経験が、そういうあきらめとは対極の、いわばガッツのようなものに変形したのだろうか。ずいぶんと違う行動形態となって現れてしまった。ガッツそのものなのか、ガッツを発揮できる性向というか枠組みなのか、それはともかく。

そもそも世間に流布しているおっとりしたイメージとは違って、大学の教師は、だいたいがかなり競争的だ。競争というと他人と闘うという感じがするから、もう少し正確に言うと、我先にという態度をとることにためらいがない、というべきだろう。でそれがガッツとなって表現されるともいえるし、子供っぽいような感じもしてしまうことにもなる。
で、それが何に近いかというと、飛行機のエコノミーでときどき団体客の集団がロビーで妙に我先にという感じになっているときがあるけれど、あれだ。出遅れてしまって自分の席に到着したときには、頭上の荷物置きのスペースにはどこの誰かはわからないひとの、免税のおみやげがすでに詰め込まれていて、俺の鞄どこにおけばいいの、みたいになっている。

じつはぼく自身もそういうときは結構激しく争ってしまうたちなので、我ながら、自分のそう言うところはイヤだなあと思っていたのだった。が、そういうことはあまりないのだけれど、今回ばかりは、そういう席取り競争で負け負けになってしまったというわけなのだった。で、すでに新しい環境で生活が始まっている人がいっぽう、中途半端に1/4くらいの本が詰め込まれた段ボールの山に囲まれて、いつ作業が再開するのだろうと思いながら、古い部屋で日記を書く羽目になっている。うのちんも気をつけた方がいいかもしれない。
(おなかがすいたのでつづく)