補遺

手入れついでに、カズオイシグロの本がユートピア物語であるというのは、そのジャンルの特徴として、語り手はユートピアの人間ではない、ということがある。「物語」の主人公はだからある意味でトミーという「男性」なのだろう。
というのも、通常のユートピア物語はユートピアからの帰還をもって、物語を閉じるという二重の構造をとるのが普通である。主人公=観察者はそれゆえ作者に重ねられる。じっさいモアが火中の栗を拾うかたちで、ユートピアの物語を書き上げた後、そのプラトン的な生(vita contemplativa)を断念し、知識人として生きる(vita activa/vivere civile)=刑死することになるのも、そういった構成からの帰結であるかのようにすら思える。

ちなみにPocockのMachiavellian Momentのひとつの主題はこの問題(知識人であることと政治的な生/世俗の生との関係)である。共和主義を問題にするなら、そのへんに手を突っ込んでくれないと不満に思ってしまう。たんにお勉強としてやられては、倒錯しているような気がするからだけれど、それはぼくがあの本を「物語」として読んだからそう思うわけで、まあいいかそれは。(おお早く書かねば。)

物語は不可避的に現実とつながってしまう。

語り手がユートピアに生まれ、帰るところが、ユートピアでありつつ、ユートピア物語の定型をなぞっていることはあの本の特徴だろう。語り手はだからどこにも所属できない場所を物語のなかで割り当てられてしまう。二重の意味でどこにもない場所である。そのどこでもない場所が、しかしわれわれの現実(車を運転しクライアントを回る)のポンチ絵である、ということは、モアから数えてすでに五つ目の世紀に生きるわれわれにとって、たしかにユートピアがすでに(幸いなことに不完全な失敗したかたちで)実現されたものとしてあるからだろう。
けれど、外の目はしかしあの物語ではトミーという登場人物に紛れ込んでいる。作者が男性だからであろうか。

考えてしまうととまらなくなってしまうけれど庭をいじっていると思えばすこし気が楽になった。台無しにしているのかもしれないけれど。