授業の準備

に、ネタの仕入れ。
これもまたひとつの読み合わせ。

フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか

フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか

クリントンのスピーチライターだったとか。たしかに一面の真実ではある。こちらに惹かれる気分もなくはない。
ハードワーク~低賃金で働くということ

ハードワーク~低賃金で働くということ

あのトインビーの孫だとか。あとBarbara EhrenreichのNickel and Dimedのイギリス版の序文を書いているらしい。こっちのほう(翻訳ないんだね! 絶対売れるのに。今ですよ、いま、商売的にはどう考えても、そうでしょ。)
Nickel and Dimed: Undercover in Low-Wage America

Nickel and Dimed: Undercover in Low-Wage America

ちなみに彼女の
「中流」という階級

「中流」という階級

はピンクの考えと対立する部分がある(いま読んでいるところ)。

中産階級と労働者階級の区別があまりはっきりと認知されないこの国では、両者を曖昧に同一視するケースがある。(それはある世代の左派に多いような印象もある。)むろん高度成長期においてはこのふたつの階級は今よりもその境界が曖昧であったことは確かだが、だからといってそこに差がないなどと考えるのは、やはりちょっとまずいだろう。
トインビーのケースなどは、与えられた条件下でそれなりに合理的に行動した結果、えらく低い水準のところに落ち着いてしまっている例として考えられ、そしてたしかにシュルツなどの人的資本についての議論では、こういう場合にこそ(むろん教育訓練を中心とした)政府支出(人的資本投資)が正当化されることになるのだが、彼女自身の提言も含め、見事にそういう事例に該当しているように読める。
ただしインフレ時にむしろ平等化が進展したとする彼女の想起は、昨今の議論を思い起こさせおもしろい。

ただ教育訓練の重視は、これはほとんど次の世代に期待をかける、というか、ある不幸あるいは失敗の被害を最小に(つまり現在世代のみに)食い止めるということであって、つまりは、彼らについては、ある一定以上のことをあきらめるというニュアンスがないではない。慈善ではないということはそういうことなのかもしれないが。

それに絡めて言うと、トインビーの本から伺えるのは、慈善活動を担う中間団体の育成を抜きにあまりに急速に不安定化をおしすすめるのは危険だということでもある。

制度設計を考える際には、同じ政策が中間階級と労働者(下層)階級で異なった作用をする可能性が大なのを考慮に入れないとまずいわけで、社会政策というのは(日本の場合そして/つまりJ.S.ミル=ブレンターノ風の理解では)、後者においては市場がうまく機能していないと見なし、市場の正常な作動を可能ならしめるために行われる政府介入であった。この場合、ある段階で社会政策的アプローチはお役目御免となり、むしろ市場にゆだねよ(ミクロ介入の排除)ということになる一方、かつての意味での労働者階級、つまりは下層にたいしてはしかし社会政策的アプローチが、それでもやはり必要とされつづける。辻村江太郎の計量の本(あれはいい本だったような・・・)でも負の所得税にからめて、そんなことが書いてあったような記憶が、かすか、に、しかし忘却の・・・
もっとも線引きはいつも問題になるだろうが、しかしもうそんな議論をフォーマルなレベルでは理解することすらできなくなってしまっている悲しさよ。ただ左派の政策提言において、後者に適切なものとされる政策セットが、前者に拡大されがちなものとなる一方、逆は逆になる傾向があるとは言えるだろう。だからどの層にむけての政策なのかが、議論においてつねに明確に意識される必要がある。
というようなことをしゃべろうか。

ちょっとしかし一般論だなあ。最低賃金や上限金利の話を引っ張れればよいのだが、もう議論について行くことができない。どうする? >おれ

フリーエージェント云々でいえば、大学に引きつけて言うと、給料を一気にフラット化(+あるいは減給?)して人件費を浮かせた上で、非常勤をなくし、女工じゃなくて助講(任期付きだろう?どうせ)をその分増やす。あるいは非常勤の待遇を一気に引き上げる、ということをやると、わりとこれに近い状況になるだろう。しかしこれは地獄への道だろうか。
もし非常勤のコマ数を数え上げて、一人頭たとえば週3〜4コマ(できれば一日にまとめて)たとえば複数年契約するとして、現状のカリキュラムを前提に、のべ何人必要か考え、もしそれで年収が2-300万とかになるように設計(むろん兼業可能というか前提)したなら、いったいどれくらいの人件費となるのか、シミュレートすることは可能だろう。
まあどこかでは具体的にそういう計算はやっているとして、しかしアウトソースのいい口実に使われるのがオチだろうか。そうだろうなあ。むろんこの場合アウトソースされることになるのは余人を持って代え難くない、つまり代替可能な科目ということになる・・・・って俺か。ガクガクブルブル。(しかし文系ODってどれくらい余ることになってるのよ。)