大学レベルのリテラシー教育というのはなかなかに難しい。社会問題についての読みやすいエッセイを素材に発表してもらっているが、たんに読んで説明するということを、ああこういうことか、と納得してもらうのはなかなかに難しい。

学生たちの興味関心はもっぱら結論に向かう。むろん結論は大事ではあるわけだけれど、問題はその結論に至る前提とそこから結論までの導出手続きをちゃんと要素要素に分解して理解できるか、というところにあるはずだ。むろんきちんとやるには手間ひまも知識も必要ではあるから、それをきちんとやれないことは仕方がないのだけれど、そもそもの注目点が「そこ」にあるのだということそのものが、なかなか身につかない。この辺は自分で身につけるしかないから、きちんと失敗してもらうのが大事で、なるべく教えすぎないように努力はするけれど、ついつい説明過多になってしまうのが最近の反省点。成功は、上の学年にいったり、卒業してからでも遅くないわけだから、いまのうちは失敗を失敗として経験してもらう必要がある。そういうのは、こっちの忍耐力が試されるところもあって、つまりはその試練を耐え切れていないということでもある。わりと去年はうまく我慢できたのだから、今年うまくいってないのはたぶん素材が社会問題なのでより厳しい試練になっているからかもしれない。

ただまあ、それまでに経験してきた、「よい」とされてきた議論や説明などのありようが、たぶん間違っているんじゃないだろうか、という気もしないではない。結論(とされるもの)をどう思うか、賛成か、反対か、というモードになりやすいのは、たぶん自分自身の経験から考えるに、どこかで自分の受けた国語教育に近しい感じがするからでもある。

多少具体的にいうと、著者は、筆者は、という主語からスタートするのではなく、わたしは、という主語や、皆さんは、という主語からスタートするケースがわりと典型的なパターンだ。まあもちろん著者はこう考えているとわたしは思います、というかたちをしているから、どっちもあるやん、といわれればまあどっちの主語もあるのだが、どうしても最後の「わたしは思います(皆さんはどう思いますか)」に力点がかかってしまうケースが多い。つまり著者はこうこうこうやって、こう考えている、ということをやってほしいのだけれど、どうもそれだと非常に不十分であるような気がするらしい。
あるいは興味関心がプロセスそのものにはないものだから、そこがすっ飛ばされてしまい、その結果、非常に発表として薄い感じになるのが不安で、コメントが増殖してゆくということになるが、プロセスが盲点になっているので、どうしてもテレビのニュースのコメントのようなものにしかならない。

性急にすぎる、ということでもある。ただまあこの辺は微妙といえば微妙かもしれない。結論にたいして性急であることが、しばしば「問題意識がある」と称され、褒められるケースもある。問題意識と立場表明は異なるだろうと、おれなんかは思うのだけれど、まあそれを一緒のものとして考えてるとして、やはりその前に、手続きとして下手は下手なりに調べる、あるいは理屈を辿りなおすという作業が必要になるはずなのだが、ある種の人にとっては、どうしてもそれはつまらんというか地味な感じにはなる。というのも、そういう場合、「立場派」の人の考える「結論」として、結局何もハッキリしたことはわからないのが結論です、ということにしかならないケースが多く、多くの学生も良かれ悪しかれ「立場派」に近いところがあるから、時間を掛けて議論したあげくどこにも到達しないから、なんかすっきりせんし、不満が溜まるのかもしれない。
どこにも到達しなくていい、というのがおれの「立場」だから、それはそれで特殊なのかもしれない。

そういえば卒論で、「かくかくしかじかでこうなると思っていたのに、そうなりそうもありません、どうしましょう」「そのまま書けば」「えっ書きたかった結論じゃないのですが」「しゃーないやん。サンマで鯛飯作ったらたぶん臭いで。」「う〜ん」というやりとりは何度もやったなあ。

あるいは、好奇心というものをすべての人がもっているわけではないから、まあすべての画家が絵が好きだとはかぎらないし、すべてのミュージシャンが音が好きだともかぎらない、というのに近いかもしれない。無論すべての物書きも、書くことが好きだとはかぎらない。

好奇心を教えようとしているのであれば、それは無駄なことをしている、ということにもなるかもしれないなあ。好奇心の解放ではなく、自尊心の満足が目的であれば、しかしその腰を折るのはなかなかに難しい。

ただやや躊躇を感じるのは、統計的な事実や、実験で確かめられたような事実にたいして謙虚でない、という結果が出てきてしまうからだ。むろんそれを鵜呑みにしないためにも導出のプロセスへの関心が必要なのだが、その部分に覆いが掛けられたままに、このように著者は述べているが(あるいはこのような事実があるとのべているが)、わたしはそうは思わない、という陳述が可能にもなってしまっている。わたしはそうは思わないことの理由もあるのだが、それは著者の思考プロセスや導出プロセスへの反応ではなく、それとは多くの場合、独立に存在している。
著者はこう述べている(こういう事実がある)が、わたしはそうは思わない。むろんそれは考えることの出発点ではあるのだけれど。(だからそれでよしとしていいのか? なんかサンマで作った鯛飯もうまいような気がしてきた。)