昨晩は

ちび太が夜中に咳き込み、とても苦しそうにしはじめる。あわててタクシーを読んで市民病院に向かうが、読んだタクシーがくるころにはほぼ落ち着いて、車中ではうつらうつらし始める。なのでタクシーには引き返してもらってそのまま家に帰る。
朝になってちび太を見ると、ちょっとのどがいたそう。相談し、9時になったら、とりあえず今日は近所の小児科に連れて行くことにする。これから何度かこういうことが起こるのだろうな。

京都で打ち合わせ。淀屋橋のブック1stで思わず買った荷宮和子なぜフェミニズムは没落したのか (中公新書ラクレ)』を電車のなかで頭を垂れつつ(料理あんまり作れないので)読む。中上健次の未発表原稿発表という謳い文句にだまされて買った雑誌、『新現実』に掲載されていた文章が記憶に残っており、以前から気になってはいたのだが、南大阪市では当然本も見かけることもなく、ついつい、そのままになっていたのだった(そもそも最近あまり本屋にも行けない)。
ほとんどすべての点で同意。ある種の同世代的な連帯すら感じる。ただし松田聖子は難儀。ああいうハングリーさ、というかガッツはあんまし「フェミニズムのようなもの」と関係ないのではないか、と思う。まあ階級差(地域差?)もあるような気もするが。
上野千鶴子批判のあたりにきっと焦点が当てられることになるのだろうが(批判そのものは大方の点で同意)、基本的はもうどうでもいいことだろうと思う。が、どこかの時点で、誰かがやっておかなければならなかった批判ではあることも確かだ。次に進むためには必要だったのかな。やはり大きな人ではあったのだし。
ただ、そこで挙げられている問題は、「80年代的フェミニズム」の問題であるかどうかは、いささか微妙な気がする。ややフェミニズムを彼女で代表させすぎているのではないか。どちらかというとぼくには、そのフェミニズムを(メディアで)牽引した(とされている)特定の『世代』の特定の個人の問題ではないだろうかという印象もある。(まあ同じことだが。)
あれほど賢いひともまれではあるのだが、ああいう振る舞いはどうも、男性の側にも多い。まあ運動周辺にいたと称する人に多かった記憶があるけれど、ともかくその場限りの勝ち負けに拘泥しすぎて、状況や理念が二の次になってしまうというタイプの人がいる。

それは結局は、制度に甘え、制度に守られ、制度を食いつぶしてきたということであると思う。そのなかの非常におおきな例のひとつとして、それはあるように思う。(しかしここまでいうとアンフェアだな。やはり上野千鶴子という人の役割は大きかった。ぼくはあの『女遊び』やなんかで、フリッパントに振舞っていたときの彼女は、いまでもやはり好きだ。彼女の好きな(あのあられもない書き方もどうかと思うが)作田啓一も吉田民人も、書いたものから判断する限り、基本的にはアカデミーのひとではない。やはり彼らの持ち味はジャーナリスティックなセンスだろうし、荷宮の評価はマイナスのほうにやや強く振れてはいるけれど、その部分で果たした役割は大きいように思う。だから逆に最近の彼女仕事はあまり好きになれないのだけれど。)

まあしかしそれも他人の人生で、そんなことより、大事なのは彼女の言う「フェミニズムのようなもの」で、そこにはまだまだ十分に可能性があるはずだ(というかそれはぼくらにとっての空気だ)。商売柄出会う学生さんたち(女性)は、たしかにメディアがその魅力をあまり伝えていないこともあって、ついつい団塊ジュニア的なものに引き寄せられてしまってはいるが、しかしそういう学生さんもひとたび「フェミニズム的なもの」に出会うと、やはりそのなんというか開放感というか、ある種のセクシーさというか、楽しさというか、そういうものに目覚めてゆくのを日々目撃しているから。
ただしとはいえ、もう一度それが花開くには、理屈も力も必要になるだろうとは思う。まあそれがこれからぼくらの世代がやることであって、まあ責任も感じていないわけではない。ただその辺に関してはきわめて楽観的だ。
ただ食い、ただ乗り世代は明らかに行き詰まっており、早晩自壊するだろう。それに、うまいものを食い。良い服に金を出す。そこにはやはり抗しがたい魅力があり、ぼく自身が、それを選択しているのはかならずしも理屈ではないからだ。

家に帰ると、ひたすら寝ているちび太。京都に行ってるあいだ、一人で面倒を見て、疲れて突っ伏しているmayakov。ちび太の方は、ときおりごろごろ咳き込む。遅くなって悪かった。ごめん。明日からようやく休み。ぼくも風邪がなおらない。さすがに少し疲れた。休むことにしよう。