天下茶屋2

南海の天下茶屋阪堺線の北天下茶屋のあいだの商店街は、三つの部分に分かれている。南海側のもっとも天井が高くタイル舗装され、いかにも支援事業で整備しましたという風情の比較的「近代的」な部分。そしてその奥には、言葉の上では同じようなアーケード商店街ではあるけれど、天井も低ければ、道幅も狭く道路というよりは路地といったほうが適切かもしれない部分が続いている。おそらくは汚れのせいもあるのだろう、この通りには昼なお暗いといった風情があるが、しかしもう危険な要素は残っていない。「アーケード」部分を過ぎてしまえば、北天下茶屋の駅まで続く「商店街」は、シャッターが下りているどころか、そもそも商店だった建物が一般家屋に立て直されてしまっているからだ。そのなかにぽつりぽつりとシャッターの下りた元商店が並び、かつはここも商店街の外れだったのだということがかろうじてわかるにすぎない。

東西に延びたこの商店街に交わる道筋は大阪には珍しくすこし湾曲しながら南北に延びている。すべての道がそうではないが、やはりそのうちのいくつかは軽自動車がかろうじて通れるほどの幅しかない。大阪を直下型の地震が起きた場合の死傷者数の衝撃的といってもいい見積もりが発表されたあと、やはりふと思い立ってこの天下茶屋を起点としたいつもの散歩道を歩いたことがある。やはり調査をしていたのか、それともたんに日常業務の一環なのか地図を片手に何かをチェックしながら同じような道のりを歩いている消防士たちに出くわした。

駅前のロータリーを過ぎると天下茶屋駅の高架下には古書と新刊を売る少し大きめの書店が入っている。その古書店部分をざっと眺め駅の反対側に出ると、開発の手がはっきりと入った区画に出る。スーパーとファースト・フードの入ったモール。もちろん駐車場がついており、車で来ることが前提になっている。南に目をむけると、その向かいにはマンションやできたばかりのスポーツ施設がなんとも中途半端な距離を置いて並んでいる。このあたりは西成区の中心部でもあり区役所や、消防署や図書館、コンサートホールなどが並んでいる。ただこのあたりはもう天下茶屋というよりは岸里というほうがぴったりとくる感じの場所になっている。南東の方に少しあるけば天神の森であり、林芙美子『めし』の主人公が住んでいたのはそのあたりということになっている。

すい

すいなよう。とよく祖母はそう言っていた。祖母ほどではないが、母や叔母からもときおりこの言葉が聞かれるときがあった。あったというのは、いまはもうほとんどこの言葉を耳にすることはないからだ。富岡多恵子西鶴について書いた『西鶴の感情』のなかで好色一代男にふれながら、この「すい」という言葉についていくらか解釈を加えている。
富岡多恵子は、九鬼周造が「いき」と「すい」を「両者は結局その根底においては同一的意味内容をもっている」としたことに違和感を表明している。「すい」は、基本的にはそれが「男女間の事柄にかかわる」、しかも「おおっぴらには」できない恋愛、「事情(わけ)のある男女」にたいする配慮といったものであった。たしかに九鬼の「いき」も遊里、つまり人身そのものが売買される売買春の世界において働くものであるというかぎりで、そこに一定の共通性は認められる。(ようするに単なる役務の賃貸借ではないということだ。)
ただし「九鬼の「いき」」は究極的には「苦界で働く「女」」にたいする評価をその出発点に置いているのではないかと富岡はいう。それにたいし、もっぱら上方で使われていた「すい」と言う言葉は、(いくつかの例外は認めつつも)その中心がむしろ「「男」の側、即ち「女」を買う側の「すい」」にあると彼女はいう。だから「すい」は「九鬼のいう「苦界」の「女」の態度や意識の理想形の固定化」ではないのだと。
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さらに富岡は西鶴の「すい」は方向性を失い「世間」から逸脱した放蕩であると続け、しかもそれがナンセンスな「笑い」あるいはおかしみへとつながるものであるとも指摘するのだが、もしそれが「すい」の要素であれば、あるいは九鬼の「いき」とのつながりもかえって出てくるかもしれない。
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ぼくが生まれる10年ほど前にはすでに売春防止法は実施され、港町ではあったから小さいながらに存在していた遊郭も、すでに建物を残すだけになっていた。勝手口を出て日のささない路地を抜けて少し歩けば、なにか普通とは違う西洋風の、子供にはずいぶんと立派に見えた建物があったが、それがかつての遊郭だと知ったのはいつのことだったのか。あるいは父が学生の頃に勉強部屋としていた小さな三畳間の窓から見える欄干が、遊郭の名残であると教えられたのはあるいはいつのことだったろうか。帰省の折にふと思い出し、かつてのその遊郭を探しても、もう見つけることはできなかった。
赤線がなくなったのは、父がまだ10代の頃であれば両親や叔母たちの世代はすでにこうした世界との直接のつながりはない。あのおばんは大阪の遊郭で働いていたと、あっけらかんと何事もなく語られる程度には、その世界は近くもあればすでに過去の話にもなっていた。あれは曾祖父の何回忌であったろうか、いまとなってはそれが曾祖父の話であったのか、あるいは祖父の話であったのかも忘れてしまったが、何かのひょうしに遊郭の話になった。あのひとは遊郭の女郎さんらのために掛けおうたってな、小学校の校庭を借りて運動会を開いたったことがあったんさ。女郎さんらもえらい喜んでな・・・。
あれは誰の話であっただろうか。そこにいる語り手以外の誰もがはじめて聞く話として聞いていた光景はかすかに記憶に残っている。
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祖母が「すいなよう」「マア、すいなんなあ」と感嘆しているようでもあれば、嬉しさを表現しているような、なんとも表現しがたい独特の言い方で、そう語っていたとき、富岡が書いたような、色恋の世界へとつながっていくような意味合いは、もしあったとしてもそれを感じるには、いくらなんでも聞いているぼくは子供に過ぎた。いずれにせよ逆立ちしても世之介にはなれそうもない。あるいはぼくが知ることもなかった、祖母と祖母のその友たちとの会話のなかでは、まだ子供であった富岡多恵子が大人たちの会話のなかで耳にしたような「すい」はまだ生きていたのだろうか。

misc.

病院の駐車場には空き台数を表示する電光掲示板がある。SOPたちを見送りに車いすで玄関まで下りた。嫌がるmosaを自転車に乗せているあいだ、いつものようにSOPが掲示板を見て143台だと嬉しそうにぼくに話しかけてくる。143だから100台と40台と3台だよと言うと、えーーっと嬉しそうな顔をして、大げさに驚く。まだ数字が量になっていないみたいだ。SOPはどんな世界にいるのだろう。いつこっちの世界に来て、143が100と40と3だということが不思議でも何でもなくなってしまうのだろう。なにかまだもう少し向こうの世界にいてほしいような気もする。

天下茶屋

聖天山に続く曲がりくねった道の反対側には北天下茶屋の駅から、南海の天下茶屋駅まで続く薄暗いアーケード街がある。この路面電車の駅を下りてすぐは、壁を手で押すとそのまま崩れてしまいそうな店舗が連なっている。この10年のあいだにも、営業をやめた店はずいぶんと増えた。とはいえ地下鉄の始発、そして私鉄の乗換駅の前の商店街という立地条件の良さは、駅に近づくにつれ、たとえそのなかに福祉関係の機器を売る店がまじってはいても、かろうじてまだ商店街と言えるだけの外見をなんとか保たせてはいる。

阿倍野区西成区は高台の上と下の関係になっている。ほとんどが海と湿地帯を埋め立てて作った大阪にあって、中心部に残っていた数少ない陸地が現在上町台地と呼ばれる南北に細長く延びる高台を作っている。作家水村美苗の母親であった水村節子の書いた自伝のタイトルにあるようにこの高台の上と下で大阪の社会階層ははっきりと分かれる。

高台にある家 (ハルキ文庫)

高台にある家 (ハルキ文庫)

高台を西に下りると葦原と重工業の大阪がある。日雇い労働者の住むドヤ街は、この高台を下り、さらに大阪の中心部向かったところにある。あるいは、あったと過去形で書くべきなのだろうか。かつて石炭から石油へのエネルギー転換に関わって日本の工業地帯が大きく変化していったころ、この地域は肉体労働者の供給地でもあった。だが地域が担ったその役割はすでに終わりを迎えつつある。
この高台の北の頂点には大阪城があり、そこから東には東成や生野と呼ばれる地域が広がっている。やはりかつてそこには海と湿地帯が広がっていたはずだ。ぼくが小学生の頃はじめて見た大阪はこの生野にあった文化住宅と呼ばれた共同炊事、共同トイレの集合住宅だった。高校を出て、新聞広告を頼りにひとりで働き始めた叔母が住んでいたのがこのあたりだった。はじめて乗った近鉄電車がついた先では、駅が大きな屋根に覆われていた。それが鶴橋だったのかあるいは上本町だったかのかは、いまではもう忘れてしまった。朝、文化住宅の外に出ると子供の足ですらあっという間に舗装された広い道に出る。そしてこの道路を(いまほど多くはないがしかし当時のぼくにとっては十分多くの)自動車が走ってゆく光景、そして感情であるがゆえにいっそう思い出しがたいものとして、羨望の思いがかすかに記憶として残っている。
水村節子の自伝のなかに出てくる私立の女子校は、鶴橋の北隣にある玉造という駅を西に向かってやはり坂道を登っていった先にある。空堀、餌差、真田山、城南寺といった名前がついたこのあたりは、市内に残った数少ない高級住宅地であり、やはり数少ない緑の残った地域でもある。ここから上本町を南に下りて天王寺あたり、JR環状線に囲まれた地域は、都市計画に従い寺社が集められたいわゆる寺町でもあったから、他の地域と比べると区画が細分化されきってはおらず、そのあたりがいくらか有利な点にもなっている。ちなみにこの南側の地域も比較的高級な住宅街といことになってはいるが、開発された時代を反映しているのか、夕陽丘などといういささか無惨な名前がつけられている。
とはいえこの高台、とりわけ大阪城の南に広がる地域の上と下のインフラ整備の差を見ると、たしかに用途指定の違いもあったのだろうが、そのあまりにあからさまな差別はいくらひとを鼻白ませるところがある。(ちなみに市内で現在建設されているマンションの多くは用地取得の容易さから、かつては工業地区(おそらく準工業地域)だったところが多いのだろう。)
この上町台地の西の境目、天王寺動物園からちょうどこの阿倍野と西成の境界線を辿るように断層が走っており、この高台が地殻の運動によって盛り上がってできた台地だということがいまではわかっている。

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たんに散歩の光景を書くつもりだったのだが、妙に長くなっている・・・。

帝塚山

この天下茶屋から東に坂道を登っていくと、住宅街が広がっている。戦前の東京周辺の宅地開発が同時に文教地区の形成を目指していたように、松虫から帝塚山にかけてもかつては大学を含め、とくに私学が多く存在していた。ぼくがはじめて働いた公立の学校ももともとはこの帝塚山の万台池のほとりにあった。向かいにはお嬢様学校として有名な私学の女子大もあり、そこには詩人の小野十三郎が教えに来ていた。公立学校の学生であったある作家は当時、小野十三郎に自分の詩を見てもらうためにその向かいの学校まで足しげく通っていた。
現在もこのあたりはまだ高級住宅地ということになっている。とはいえ大阪は高級住宅地を維持するには決定的に緑が少なく、街並みの高級感を保つことに失敗している町が多い。もともとの埋め立て地だけではなく、高台にあったこうした町ですら何カ所かに点在する神社にかすかに緑が残っているが、それを除くとぎっしりと細分化された土地が並んでしまっている(そういう意味では大阪市内においてジェントリフィケーションを心配することはいくらか倒錯している感じすらする)。
そうしたある種の地盤沈下はこの高級住宅地にもいくらか停滞の雰囲気が漂わせることになる。しかもある日この街から若い女性たちは突然に消えてしまう。公立の学校も、その向かいにあった私立のお嬢様学校も、相次いでこの地を離れ落下傘のように大阪の郊外に新天地を求めた(公立の学校は廃止され、私立の学校は共学化した。大阪の人たちが口先ほどには自分たちの住んでいる地域を愛しているとはとても思えないのはこういうところにも感じる。)
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こうして大阪南部の開発のために移転した公立学校もはやばやと閉校する。****女子大学がこの街にきていただけると聞きまして、わたくし自身大学などというところには通ったこともなく、どうやってお迎えすればよいのかと、わたくしどもに何ができるであろうかと、この町のみなさんとたいへんに頭を悩ませたことを覚えております、と学校を閉めるにあたり、その校舎で行なった最後の卒業式に招かれた当時の町内会長だった男性が何ひとつ抗議めいた言葉を挟まずに語るその語り口からは、しかし何か承服しがたいという感情がそのままにかたちとなって体に突き刺さってくる。こうしてまた町はその姿を突然に変えられてしまう。が、それはしかし別の話だ。
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この高級住宅地も80年代のどこかで時間が止まってしまってる。ガイドブックに取り上げられるようなケーキ屋や喫茶店、レストランやブティックなどがあるけれど、資本主義が本来持っているはずのある種の活力はもうそこからは奪われてしまっている。昼食を食べに入った上品そうなレストランも、きちんとしたその仕事とは裏腹にやはり過去の空気を漂わせていた。
昔はこういう店がいいとわたしも思っていたわと、お手洗いから戻ってきたmayakovがそう言ったことがある。こういう店って? こういうアール・デコ風の内装。トイレもそうだったし、ほら、あそことか、あそことか。ぼくらが中学生だったか高校生であったか、日本がまだ豊かになろうとしていて、まだなりきれていなかったころに解釈され変形された西洋がそこにはある。バブルを経て良くも悪くも等身大の西洋を受容できるようになった90年代以降の文化とは質的に違うものがまだここには凍結され、そっくりそのまま残っている。たとえば大阪でもキタや神戸、そして東京であれば、建築物としては残ってはいても、その存在に気がつくことはあまりない。周囲に存在するいっそう現代風の建物が、時を経て相対的に目立たないものになったそうしたビルを隠してしまうからだ。
だがここには周囲の風景もそのままにかつての華やかさがそのまま風化したまま保存されてしまっている。
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けれどひとりで歩くときは、この高台に向かって坂を登るのではなく、海に向かって平坦な道を歩くことが多い。

阪堺線

しばらく続けていた仕事がすこし落ち着いたので、電車に乗って天下茶屋で下りる。夏休みになれば手術を受けねばならないから、しばらくはこうやって歩くこともできないという理由もある。廃校になった前の職場に勤めていたとき、今時は珍しくなった路面電車の駅の近くに住んでいた。アーケード商店街と小さな神社がある町だった。すでに多くの店にはシャッターがおり、この商店街と神社は立派な中央分離帯のついた道路で遮られていた。バスレーンも含めれば六車線という立派な道路だった。
研究会などで京都に行くときはこの路面電車に乗って終点の恵美須町で下りることもあれば、天下茶屋で下りてそこから阪急と乗り入れしている堺筋線に乗ったり、南海の高野線に乗って難波に出たりした。南大阪の煉瓦造りの古い工場を通り過ぎ大和川を渡ると、電車は我孫子道を越え、住之江、安立町、住吉そして粉浜といったかつての海岸線を思い出させる地名を通り過ぎてゆく。
この路面電車は大阪南部のかつての高級住宅街ともっとも貧しい地域の両方をつないでいる。ただしそれはひとつの同じ路線ではない。岸里玉出、聖天坂を通る路線は、北天下茶屋から松田町、今船、今池といったやはり水にまつわる地名を通過し、荻之茶屋そして動物園のある新今宮、そして恵美須町へと向かう。それとは別の路線は住吉から分かれて神ノ木帝塚山姫松、北畠、松虫といった大正から昭和にかけて中産階級そしてブルジョアたちが土地を買って住んだ土地をゆっくりと通りすぎてゆく。天下茶屋という名前はその両方の路線にあらわれる。ぼくがよく下りたのは北天下茶屋であり、この駅は西成と阿倍野というふたつの地域の阿倍野から西成に入ってすぐのあたり、どちらかといえばより庶民的で小さな商店街のアーケードがちょうどとぎれたところにある。

アリンスキー・ノート7(最後)

アメリカの子供たち

ウエルズリーの四年目は、わたしの信念を試し、明確にするものとなった。卒論では、シカゴ出身で地域活動家のソール・アリンスキーの著書を分析した。彼とはその前の年に会っていたが、長いキャリアを通して、きまって相手を怒らせるという派手な問題人物だった。彼の社会変化への処方箋は、草の根の組織が大衆に政府や企業と対決するよう教えることで、暮らしを改善するための資源や力を獲得するというものだった。アリンスキーの思想には部分的には賛成だった。とくに、人びとに力を与えて自立できるようにするという部分がよかった。だが、ひとつ根本的な食い違いがあった。アリンスキーは社会の制度は外側からしか変えられないと信じていたが、わたしはそう思わなかった。後になって、大学を卒業したとき、「自分のところで働かないか」と誘ってくれたが、「ロースクールに進学しますと」言ったらがっかりして、「時間の無駄だよ」と言った。
ヒラリー・ロダム・クリントン『リビング・ヒストリー』(酒井洋子訳)2003

第二次世界大戦に兵士として参加した白人男性労働力の穴を埋めたのは、女性と南部から流入した黒人であった。つまり戦前において社会参加を制限されていたこのふたつの集団は、戦後になって政治の表舞台へと登場することになる。アメリカの場合、すでに戦間期には多くの州で女性参政権が獲得されていたが、むしろこの時期、識字テストなど、さまざまな手段によって黒人の投票権が奪われていったことが知られている。黒人が実質的に投票権を取り戻してゆくのはまさに50年代、公民権運動のテーマである。この時期、アリンスキーはシカゴを始め北部に流入してきた黒人たちのコミュニティの組織化に携わっている。だが、彼が黒人コミュニティの組織化に力を傾注すればするほど、戦前、彼が作り上げた人的なネットワーク、東欧のカトリックを中心としたコミュニティとの亀裂は深まってゆく。黒人の流入が、地価の低下を招き、白人中産階級の郊外への流出を加速するという悪循環が加速しつつあった。コミュニティの一体性を維持しようとするグループは、むしろ黒人排斥と民族的な純化に向かうことになる。
公民権運動の高まりは、こうした袋小路を突破する光明になるかに見えた。じっさいアリンスキーが戦後中心的に関わったウッドローンと呼ばれる、シカゴ大学の後背地での黒人コミュニティの組織化は、公民権運動をきっかけとし、黒人自身が有権者登録を進めたことで、ひとつの政治勢力としてシカゴの政治シーンに登場することとなり、無視できない政治集団としての地位を獲得することになる。
名門女子大、ウエルズリー大学の学生であった、ヒラリー・ロダムがアリンスキーのもとを訪れるのはこのころである。翌年、ウッドローンのプロジェクトで、ふたたびその名をとどろかせたアリンスキーは『ラディカルよ目覚めよ』の第二版を出版する。そしてヒラリー・ロダム、のちに夫の姓を加え、ヒラリー・ロダム・クリントンを名乗るこの学生は、その卒論に、アリンスキーの活動と、彼の書物を題材として選ぶことになるだろう。結果としてすれ違いに終わるこのふたりの人物ではあったが、彼女がアリンスキーの誘いを断り、イエール大学ロースクールに進学したあと、入れ替わるかのように、ニューヨークからひとりのユダヤ系男性がアリンスキーのもとを訪れる。1970年のことであった。この男性、ジェリー・ケルマンは、しばらく訓練を受けた後、シカゴのサウスサイドでの住民の組織化に関与することになる。だがオイル・ショックとニクソン・ショックを経て、冒頭で述べたようにアメリカ北部の製造業は緩慢な衰退を歩み始める。一時この地を離れ、学位を取得した後、ふたたび組織化を開始するケルマンを待っていたのは、成功した黒人自身がインナー・シティから郊外へと脱出してゆき、麻薬と暴力にあえぐ取り残された黒人貧困層の困難であった。人種間、そして階級間の、分断と不信はこうしたコミュニティの再建運動をいっそう難しくする。ユダヤ系であるとはいえ白人の彼と、サウスサイドの黒人のあいだを仲介するために、ケルマンの求めに応じてこの地にやってくるのが、コロンビアを卒業したばかりのバラク・オバマ青年であり、そして直面した問題を彼がどのように考えていたかは冒頭で引用した通りである。しかしバラク・オバマがシカゴに来たとき、アリンスキーはもうすでにこの世にはいない。二冊目の本、『ラディカルのためのルール』を出版した翌年の1972年、63才の若さでこの世を去ったからである。