アリンスキー・ノート7(最後)

アメリカの子供たち

ウエルズリーの四年目は、わたしの信念を試し、明確にするものとなった。卒論では、シカゴ出身で地域活動家のソール・アリンスキーの著書を分析した。彼とはその前の年に会っていたが、長いキャリアを通して、きまって相手を怒らせるという派手な問題人物だった。彼の社会変化への処方箋は、草の根の組織が大衆に政府や企業と対決するよう教えることで、暮らしを改善するための資源や力を獲得するというものだった。アリンスキーの思想には部分的には賛成だった。とくに、人びとに力を与えて自立できるようにするという部分がよかった。だが、ひとつ根本的な食い違いがあった。アリンスキーは社会の制度は外側からしか変えられないと信じていたが、わたしはそう思わなかった。後になって、大学を卒業したとき、「自分のところで働かないか」と誘ってくれたが、「ロースクールに進学しますと」言ったらがっかりして、「時間の無駄だよ」と言った。
ヒラリー・ロダム・クリントン『リビング・ヒストリー』(酒井洋子訳)2003

第二次世界大戦に兵士として参加した白人男性労働力の穴を埋めたのは、女性と南部から流入した黒人であった。つまり戦前において社会参加を制限されていたこのふたつの集団は、戦後になって政治の表舞台へと登場することになる。アメリカの場合、すでに戦間期には多くの州で女性参政権が獲得されていたが、むしろこの時期、識字テストなど、さまざまな手段によって黒人の投票権が奪われていったことが知られている。黒人が実質的に投票権を取り戻してゆくのはまさに50年代、公民権運動のテーマである。この時期、アリンスキーはシカゴを始め北部に流入してきた黒人たちのコミュニティの組織化に携わっている。だが、彼が黒人コミュニティの組織化に力を傾注すればするほど、戦前、彼が作り上げた人的なネットワーク、東欧のカトリックを中心としたコミュニティとの亀裂は深まってゆく。黒人の流入が、地価の低下を招き、白人中産階級の郊外への流出を加速するという悪循環が加速しつつあった。コミュニティの一体性を維持しようとするグループは、むしろ黒人排斥と民族的な純化に向かうことになる。
公民権運動の高まりは、こうした袋小路を突破する光明になるかに見えた。じっさいアリンスキーが戦後中心的に関わったウッドローンと呼ばれる、シカゴ大学の後背地での黒人コミュニティの組織化は、公民権運動をきっかけとし、黒人自身が有権者登録を進めたことで、ひとつの政治勢力としてシカゴの政治シーンに登場することとなり、無視できない政治集団としての地位を獲得することになる。
名門女子大、ウエルズリー大学の学生であった、ヒラリー・ロダムがアリンスキーのもとを訪れるのはこのころである。翌年、ウッドローンのプロジェクトで、ふたたびその名をとどろかせたアリンスキーは『ラディカルよ目覚めよ』の第二版を出版する。そしてヒラリー・ロダム、のちに夫の姓を加え、ヒラリー・ロダム・クリントンを名乗るこの学生は、その卒論に、アリンスキーの活動と、彼の書物を題材として選ぶことになるだろう。結果としてすれ違いに終わるこのふたりの人物ではあったが、彼女がアリンスキーの誘いを断り、イエール大学ロースクールに進学したあと、入れ替わるかのように、ニューヨークからひとりのユダヤ系男性がアリンスキーのもとを訪れる。1970年のことであった。この男性、ジェリー・ケルマンは、しばらく訓練を受けた後、シカゴのサウスサイドでの住民の組織化に関与することになる。だがオイル・ショックとニクソン・ショックを経て、冒頭で述べたようにアメリカ北部の製造業は緩慢な衰退を歩み始める。一時この地を離れ、学位を取得した後、ふたたび組織化を開始するケルマンを待っていたのは、成功した黒人自身がインナー・シティから郊外へと脱出してゆき、麻薬と暴力にあえぐ取り残された黒人貧困層の困難であった。人種間、そして階級間の、分断と不信はこうしたコミュニティの再建運動をいっそう難しくする。ユダヤ系であるとはいえ白人の彼と、サウスサイドの黒人のあいだを仲介するために、ケルマンの求めに応じてこの地にやってくるのが、コロンビアを卒業したばかりのバラク・オバマ青年であり、そして直面した問題を彼がどのように考えていたかは冒頭で引用した通りである。しかしバラク・オバマがシカゴに来たとき、アリンスキーはもうすでにこの世にはいない。二冊目の本、『ラディカルのためのルール』を出版した翌年の1972年、63才の若さでこの世を去ったからである。