ようやく

最初の短編が読み終わる。読みながらどこかで読んだことがあるような気がして、少し考えたら、どうも中上健次に似ているような気がしてきた。『しょっぱいドライブ』を読んだときはあまりそういうふうには思わなかったのだが、こっちの短編集では、方言がよく使われているせいか、あるいは女同士の会話が多いせいだろうか、リズムのようなものが、ほとんどそっくりだ、という気すらした。ずいぶん前のことになるが、やはりこれは男性の新人作家のもので、中上に近いと評されたような小説を読んだこともあったが、そのときはまるで似ているとは思わなかった。シチュエーションが似ている、ということだったのだろうが、方言が出てくるにもかかわらず、文章はまるで別物だった。
この『裸』という短編集を読み終わったらもういちど『しょっぱい」を読んでみようかしら。しかしいつ読み終わることやら。

今日はSOPとmayakovと久しぶりで三人で出かける。自分用の机と椅子をそれぞれ6000円ぐらいのものを買う。奥行き50センチ幅80センチのすごく小さなもの。これまで食卓でやっていたのだが、なんとなく生活と勉強は分けた方がよいかな、という気がしたのと、ちょっと机のサイズが高すぎて、長いこと座っていると腰に負担がかかったせいだ。
こっちはまあそういう目的があったわけだが、本日の目的は、基本的には家族サーヴィス。日頃の感謝にmayakovに少し羽を伸ばしてもらっているあいだにSOPとショッピング・モールをうろうろする。が、うろうろというのは適切な言葉ではなく、すこしだけうろっとしたあとは、SOPは一目散にお気に入りの場所を目指して突進。駐車場の入り口で二人並んでで座り込む。隣でSOPはぼくの手を握って、バスや車が入ってゆくのを、いちいち「ぶーぶう」「うーわ(大きい)ばーすう」「ちっちゃばーすう」とか言いながら飽きることなく眺めている。風が強くて本人もちょっと寒かったみたいなのだが、てこでも動かない。上着を着ていたSOPはともかく、ぼくは長袖Tシャツ一枚というアメリカンな格好をしていたせいでちょっとこごえてしまった。mayakov合流後、おもわず半袖Tシャツを買って、年甲斐もなく重ね着をする。えらくローライズなデニムのパンツなので、ほんとうに若作りで申し訳ない。何回か下着も見えたと思うが後ろの人、ほんとうに申し訳ない。

結局、本屋には寄らず。最近このパターンが多い。出勤途中で寄る、駅にある天牛以外の本屋にはほとんど行かないし、そこで雑誌か、均一セールの古本しか買わない。まあいい本もあるからいいのだが。このあいだは佐竹昭広の『万葉集抜書』の箱入りの版があったので、手にとって眺めていたら、どうしても欲しくなって買ってしまった。すでに文庫本を持っているのに、活字が違うのか、組みや余白のせいなのか、まるで違った印象をうけたせいだ。それにしても文章に品があるなあ。まあこういう学者だったらどんなによかったろうと思うが、まあそれは誰しもが思うのだが、双葉の頃からまるで違うので、比較するのもおこがましい。大きなものを見通して、斜めに横切ってゆくのは、まあほんとうによく読み、よくものを知っていて、かつ頭がすっきりしていないとできない。だが少なく読み、あまりものを知らぬうえに、ぼんやりと目の前に霞がかかってもいるわけだから、これはどうにもいかんともしがたい。せめて文章だけでもこういう品のある文章が書けないものかとも思う。が、それもなかなかそうはいかない。

そういえば引っ越しの前にはトレヴァー=ローパーの『北京の隠者』というのも見つけて買った。トレヴァー=ローパーも好きな学者で、このひともよく読み、よく知り、よく分かり、というタイプなのだろう。物事を斜めに横切ってゆくことができる。これはトイレ用の本なのだが、いま読んでいる本(これも天牛で買った、ホッケの『マグナ・グラエキア』)が終わったら読むつもりなのだが、いつになることやら・・・。
そういえばこの本を読んでいたら、「植物相」という日本語にフローラとルビが振ってあった。ホッケがわざわざもとの文章でそう書いていたのだろう。フランス語ならfloreで、この間、格安で手に入れたロベールの電子辞書を引くと、Ensemble des especes vegetales qui croissent dans une region determinee.とある。そういうわけで、ついつい田舎のことを思い出した。南イタリアに羊歯や苔があるわけでもなかろうが。
 しかし、もうこういう本でいい、というのは老化なのか成長なのか(それに古本を読むということは、ほぼ必然的に日本語の本が多くなってしまうことを意味する)。新しい本を読まないのは危険な気もするなあ。いやそれよりもどうしてもこういう本は「享受」してしまって、攻撃的に読むというふうにはならない。それはつまりは停滞する、ということだ。だが、もう「全部」はできない、ということも確かで・・・。うーん、どうする。いやともかく寝ないと・・・。こんな文章を書いている暇はないのだ。ないのだが・・・。