いただいた本

西田正宏『松永貞徳と門流の学芸の研究』汲古書院
ありがとうございました。
なかなか「はまぞう」(というかアマゾン)に出てこないので、あまり遅くならないうちに。

松永貞徳と門流の学芸の研究

松永貞徳と門流の学芸の研究


ひとことでいえば地下歌人たちのこと、が書かれている。地下歌人というのは「じげ」と読むらしい。僕が理解するかぎりでは、歌の家の出ではない、つまり公家ではなく、「秘伝」なるものの、直接の正統的な継承者たりえない者である。彼らは志して歌を読もうとした、いわばこういってよければ「出版」によってもたらされる「世俗化」の結果生まれてきた歌(詠/読)みたちであって、ためにその営みは「学芸」たらざるをえないような、読むことと、詠むことの緊張の中にいた者たちであると思うのだが、それでよかっただろうか。むろんそれは「読む」こと、収集し判断し選択し、さらには付加するという行為、「注」する行為に向けて歩みを進めざるをえない者らであったようにみえる。
書物という媒体のもたらす影響については多くのことが語られている。非常におおざっぱにいえばそのような枠組みのなかで理解されるべきものであろうとは思う。しかしこの近世という時代の微妙さは、あまりすっきりと割り切った理解をなかなかに許してくれない。

(望月)長孝たちは、以上のような秘伝に縛られている点ばかりが、今までは、注目されてきた。つまり、貞徳や長孝をはじめとする地下歌人の学芸は、しばしば中世の残滓のように捉えられてきたと考えられる。また一方で、契沖の学芸は、近代実証主義の魁のように称揚されてきた。そのように考えれば、両者の距離はとてつもなく遠い。しかし、考察を加えてきたように、長孝の側から言えば、その注釈は、契沖と同程度の知見に、十分に達する面を具えていた。一方も、契沖の注釈も、決して長い注釈の歴史からは無縁ではいられなかったのであって、学芸の達成という意味においては、長孝も契沖も決して時代の埒外にはいなかったと言えるのではないだろうか。

といった(どこかフーコーの仕事を思わせるような)文章には、だから

「時代の埒外ではない」というのは、長孝や契沖の学問の達成が、彼らの個性にのみ還元されるべきではないということを考えてのことである。結果としてそれなりの条件が整うこと、『古今集』の注釈の問題で言えば、ある程度の先行注釈書が見渡せることが必要で、結果的には、彼らしか到達できなかったかもしれない。けれども、その達成は、長い注釈の歴史の中で培われ、徐々に形成されてきた方法を経ての達成であったと考えることもでき、広く時代の思潮として捉える視点も考慮しておくべきではないかと思われる。この点については、なお慎重に検討し、考察を深める必要を感じているが、本節においては、ひとまずは、地下歌人の注釈の達成を見届けることを、第一の目標とした。

という注が是非とも必要であると筆者には思われたのであろう。が、ここに注が必要であった、というその自体、そしてその注がもっぱら自分自身に向けられているようにみえることがやはりある種の揺れの存在を示しているように思う。だからこそ(長孝についての章とともに)僕らのような部外者にとっても教えられるところの多い、長伯についての章で、

貞徳をはじめとする者たちは、そのように(契沖のように)は、しなかった。そうする方法を選ばなかった。いや、そうすることは思いもよらなかったのだろう。地下の彼らには、自説を立てることより、師説を継承することの方がより重要なことだったに違いない。たとえば貞徳が『戴恩記』のなかで、師の恩の大切さを説き、師の名を何人も列挙したのは、その象徴的な表れと言えよう。

とひとまずは述べた後で、

一方、契沖は師と呼ぶべき人を求めなかった(『厚顔抄』)。故に、その学問は高く評価され、名を残すこととなった。しかし、それは、あくまで現代の私どもの評価であって、師説とは無縁であった契沖は、その意味で、孤高の人であった。

という(同じことではあるが、微妙に力点の変わった)評価へと、もう一度折り返してゆくのであろう。
いずれにせよ、そこから先の途は(これまでの道行き同様)軌道の定まったものであろうはずもなく、読者としては、そこからまたどのようなことが起こり、どうなってゆくのか、楽しみがまたいや増すばかり。