たぶん

食中毒かなにかのようだ。わりあいと当たりやすいたちなのだ。むかし牡蠣にあたって以来そうなったような気もする。
学生のころに、学校(というか学校の地下)で牡蠣パーティをやったことがある。近所の市場で牡蠣を買って、牡蠣といってもビニール袋に入ったフライ用の牡蠣を安いと言う理由で買ったのだから乱暴な話だ。いちおう酢にはつけたけれど、これはヤバイと思って警戒して食べなかったのに、Dというオランダからの留学生があまりにおいしいおいしいと食ってるものだから、一口だけと思って食ったら、ものの見事にヒットして、人生最悪の状況になった。牡蠣は一日おいてから来ることを知らなかったので、風邪だと思いこんでいたのだけれど、あとで別の友人も同じ状況になっていたので、牡蠣だということが分かった。若かったから病院にかからずになんとかなったが、今なら三日やそこらでは済まないはなしだったろう。ちなみにDは16個も食ったのにピンピンしていた。こりゃ戦争にも負けるはずだと思った。

昨日からイオン飲料をちびちび飲んでいる。このイオン飲料がおいしいときは体調が悪い証拠だ。
昼過ぎになってちくちくした痛みもようやくおさまる。せっかくのひとりの日曜なのに結局なにもすることができないのはちょっと残念。授業の準備をしたかったのだが・・・。泥縄が続くなあ。

こういうときはしかし、あまり活字も頭に入らないのだが、外国語はへんなもので多少読む気になる。それで、これも大道珠貴のように、半ページ、1ページという亀の歩みで読んでいるPatrick ModianoのDora Bruderを久しぶりに読む。いま電車で大道珠貴、トイレでグスタフ・ルネ・ホッケ、ひとりの喫茶店でモディアーノというような感じだ。近ごろはひとりで喫茶店にいることがほとんどないので、モディアーノのこの本は全然進まない。
ちなみに色んなカバンにいろんな本が入っているので、そうやって断片的に数ページづつ読み進めている本がほかにも数冊ある。

それで寝付けないベッドで睡眠薬代わりに読んだモディアーノの一節

Comme beaucoup d'autres avant moi, je crois aux coincidences et quelquefois a un don de voyance chez les romanciers -- le mot << don >> n'etait pas le terme exact, parce qu'il suggere une sorte de superiorite. Non, cela fait simplement partie du metier : les efforts d'imagination, necessaires a ce metier, le besoin de fixer son esprit sur des points de detail -- et cela de maniere obsessionnelle -- pour ne pas perdre le fil et se laisser a aller a sa paresse --, toute cette tension, cette gymnastique cerebrale peut sans doute provoquer a la longue de breves intuitions << concernant des evenements passes ou futurs>>, comme l'ecrit le dictionnaire Larousse a la rubrique << Voyance >>.

細部への強迫的なまでの、精神の集中は、物語作家だけに必要な技術ではないと思いたいが、あるいはもう学者には必要のない、あるいは不要な、いや有害な技術なのかもしれない。

しかしこの細部への集中をgymnastique cerebraleというのはまあ感じは分かる。気を入れて読み、考えると、これもまた比喩だが脳が本当に肉体的に疲弊するのがわかる。ある瞬間に、腕立て伏せやランニングがもうできないような感じで、ああ、もうこれ以上考えられない、というときがくるのだ。真っ白になるのではなくて、前に進めなくなるのだ。考える、ということが、考えようと意図することの結果ではないことはこういうときにはっきり分かる。こういうときは、考えようと意図することはできるのだが、じっさいに考えることができなくなっていて、考えるべき、辿ってきた思考の続きがもう考えられないのだ。ああ、ここに限界があるのか、という感じで、そういうときは妙におかしくて、笑みが浮かんでいることが多い。
別にだからといってことさら立派なことを考えているわけではない。人には能力差というものがあるからだ。ただ残念なのは、最近そういうことがじょじょに少なくなってきていることだ・・・。

だから体をつかってどうのこうのというのはほんとうに気楽でうらやましいとも思う。気楽というかな、まあでも、ね。いろいろ耐えねばならんことは多い。もうユートピアには住んではいないのだからな。

もうしんどいから訳はまた後日。しかしアクサンはどうやればいいんかな。