京都

にいったら少しだけ時間が余ったので本屋にいったらつい本を買ってしまった。賢いので三冊+1(古本)だけにする。ということでひさしぶりに本の紹介、つっても平積み本なので紹介なんかいらないっちゃあ、いらないのだけれど。(勉強がらみでない本は久しぶり!)

移民たち (ゼーバルト・コレクション)

移民たち (ゼーバルト・コレクション)

このひとのアウステルリッツはほんとうにすばらしかった。どうやら『アウステルリッツ』を訳した鈴木仁子さんが全部訳してゆくらしい。すばらしい! サイトー(@京都)さんに、現在まだ小説を書くことは可能なのか、と聞かれて、Fと「ゼーバルトがいる!」と声をそろえたことが思い出される(正確には「いた」なのだが)。「目眩まし (ゼーバルト・コレクション)」は翻訳が待ちきれなくてついつい仏訳を買ってしまったのだけれど、途中で積ん読になってしまっていた。来月出てしまうそうなので、嬉しいような悲しいような。『アウステルリッツ』も改訳になるようだし買ってしまうかもしれない。このひともドイツ系イギリス人というか在英ドイツ人だった。欧州の文学である。
アウステルリッツ

そのときFがこれもすばらしいと推薦したのがコーマック・マッカーシーだ。
すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

カウボーイの少年が国境を越え、メキシコに行って、身分違いの恋をするというとてもありそうにない、暴力と裏切りの美しい物語。これがいけしゃあしゃあと「現代の(!)」物語として書かれてしまうアメリカと、もはやそうした「物語」が不可能となった中で書くというゼーバルトのメランコリーとの対比は、欧米などという括りが不可能なこの「西洋」文明のたどり着いた地点を物語っているように思った。(ネグリとハートのあの本の欠点はこういうアメリカが出てこないところ。)

上の紹介だとたんにアナクロな本なのだが、とはいえマッカーシーはそれが「現代」であることも注意深く書いている。近代史の延長線上にラテンアメリカはあるのだということが実感としてあるのだろうか。それとも一種の作法なのだろうか。そういうところもしっかりしている。たしかにかの地方では政治はあらゆる局面で切り離しがたいのではあろう。

グスターボが捕らえられました。それからフランシスコとピノスアレスも。グスターボは広場の暴徒たちの前に引き出されました。暴徒は松明やカンテラを手に彼を取り巻きました。そして片目野郎と罵りながら拷問を加えたのです。彼が妻と子がいるから助けてくれと頼むと卑怯者呼ばわりしました。あのような人物を、卑怯者などと。・・・
歴史においては対照群は存在しません。こうなっていたかもしれないとはいえないのです。人は悲痛な思いを込めてこうなっていたかもしれないと考えます。しかしかもしれないものなど存在しません。これまで一度だって存在しませんでした。歴史をよく知らない者は過去の過ちを繰り返すといわれます。でもわたしは知ったからどうなるものでもないと思っています。歴史において常に変わらないものは貪欲と愚かさと血を好む性癖であってこればかりは神も--およそ知り得ることはすべて知っている神も--変える力を持っていないのです。

これも国境三部作を買ったのだけれど積ん読になってしまっている。外国語が苦手だということはほんとうに悲しい。しかし時間さえあれば読めるんだから時間を取り戻さないとな。金も名誉ももうそんなに必要とはしてないから。

ごめんなさい神様。また嘘をつきました。

それときれいな表紙の

ケミカル・メタモルフォーシス

ケミカル・メタモルフォーシス

研究会で断片的に聞いたことが本になっている。ケミカルなぼくらの時代。ケミカルなぼくたち。もともと英文学でブレイクなんは知っていたけど、農学部も出ているとはしらなんだ。農学というのはバケ学だものなあ。
姉飼』の作者というオビの宣伝文句は売り上げに貢献するのか貢献しないのか微妙な感じ。が、こんかいのカバーはよかった。『姉飼』はだってこれだもの。
姉飼
かなり損をしたと思う。編集の人はモーセーだな。

丸山真男『自由について ー七つの問答ー 聞き手:北沢恒彦 塩沢由典 鶴見俊輔』SURE
SUREの本は大阪だと手に入りにくいので。しかし奥付をみるともう三刷。考えてみるとしかし今回はこの本だけが商売がらみ。

丸山というのはある種の歯止めになっていたのかなあ、と思う。ぼくは鶴見俊輔というという人をなにか不寛容な感じがして、もともとあまり好きではなかったのだけれど、そのそれでもまあ認めているところはあった。ただ、壁の崩壊以降そういう傾向が強まっていったような気がして難儀だなあと思っていたら、回想録がでたころを境にして、まあ年齢もあろうが、なんかぐだぐだになっていったなあという印象がある。今見ると回想録は97年で丸山の死の翌年なんだなあ。まあ偶然なんだろうけどな。

が、鶴見俊輔にかぎらず、メディア状況を考えると、彼の死後いろんなところのたががゆるんだのかもしれない。

北沢邦彦はやっぱりSUREから出ている(これは山田稔との競作とでもいうべき)
『酒はなめるように飲め/酒はいかに飲まれたか』
が、よかった。それ以外の本は生きている空間が違いすぎて正直ちょっとよく分からないことが多いのだが、この本はよかった。

それと古本屋で
バビロンとバイブル―古代オリエントの歴史と宗教を語る (りぶらりあ選書)

バビロンとバイブル―古代オリエントの歴史と宗教を語る (りぶらりあ選書)

ボテロの本の翻訳があるんだと思ってびっくりしたのだけれど、この本だけではなくほかに三冊もある。それだけ取り出すとなかなか立派な文化国家だと思わぬでもない。内容は功成り名を遂げた学者が自分の学問人生を対談しながら振り返るというフランスではよくあるもの。旧約というかアッシリア学の碩学。もともとドミニコ会の修道士だったとは知らなんだ。育ち方が桁違いで、現代の文化というか学問はやっぱりあいつらが作ったんだなということを痛切に感じる。
フランスだと本屋に行くとこのひとの廉価版の本がよく平積みでおいてあった。GiovanniのほうのBoteroの本を読んでいたので、ついつい本屋に行くとのこの人の本が目について気になっていたのだった。どういう人か詳しく知ることができて、ちょっとすっきり。

いいことがあった。ちょっと元気が出た。