越前から

ピンカーの本について

人間は機械か?という問題にたいして機械論から、時計のようなものである、熱機関のようなものである、コンピュータのようなものである、という3つの回答が歴史的に提出されてきたが、熱機関とコンピュータのあいだに大きな飛躍があるというか、問題が変質している。簡単にいえば、物理的運動(仕事!)がなくなっているわけで。これは、身体(および情動)にかんする問題が解決されて消滅したということを意味しているのではないと思うのである、が。さて、どうか

非常に単純に言うと、知能とういか、人間的なるものとしての意識、のようなものをうまくシュミレートすることができれば、それはメカニズムがある程度、解明できたということにしよう、と考える立場(ラディカル行動主義?)にたいして、哲学の側からの伝統的な反応としては、心身問題があるでよ、ということになっていたように思う。
ただ、認知科学の最近の動向のひとつとして、そろそろもひとつ大きなブレイクスルーしたいなあ、ということでみなさんいろいろやってるようなのだが、そのひとつの方向としては、ロボット作って、実装してみよう、というのがあるみたいで、これは解釈にもよるのだが、どうも人間のような知性(というか悟性というべきか)をちゃんと機能させようとすると、どうも手足のようなものがないとあかんかもしれん、という問題意識にも読める。プラクチカルでいいなあ、と思うわけです。激しく前進していってる分野なので、まと外してるかもしれませんが。

大森荘蔵風にいうと、手足というのは感覚器の一部のようなものですし。
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魚住昭野中広務」について

それにしても、印象深いのは、「田中〔角栄〕政権以来、日本の政治は平等指向を内包した非エスタブリッシュメント出身者たちによる「土着的社会主義」の色合いをもつようになる」(池田内閣にその萌芽を指摘しつつ)という「自社の馴れ合い」のくだりで、ようするに、「左翼」なるものはそのころから消滅していた、ということである。というか、自民党社会党だったという。両者のちがいといえば自衛隊と国旗国歌ぐらいであったということで。いわれてみればそうだなあ。これははっきりそう認めたほうが有益だ。たんに議会政治の腐敗とか空洞化ということではなくて、イデオロギーというものをどの水準で測るかという意味で。

ややおおげさだけど、冷戦というものが“終わった”のはそのころ(60年代?)だと考えてよいということの傍証になるような気がする。89年冷戦終焉というのはあまりにも皮相だ。

そうなのだ。で、問題は野中の終焉が、野中的なものの終焉なのか、というのがひとつ。この本を読むと、要するに「理念」を「具体化する」というかたちの想像力を欠いていたがために、位人身を極めようとしたときに、方向性を失ってしまう、昔風にいうと天下に号令しようとしたとき、号令するものがない、というところもよく描けていたようにも思う。そのへんは何もなくても号令できてしまうというか、号令だけしている(右向け右、とか)小泉と比べても生真面目なのだろうが、個人的にはちょうど野中から小泉へという時期に日本にいなかったので、あまり確信をもっていえない。
あと蜷川虎三というのは日本におけるミッテランだったのだな、と実感。戦前の戦争協力から共産党京都府知事、政権についてからの権力というものの冷酷というか合理的な行使の仕方といい。
今やってる教育のことにかんしていうと、やはり彼が15の春は泣かせない、という高校全入運動の旗手だったというのは非常に象徴的だ。これは日教組対文部省の争いの中では珍しく文部省の圧倒的大敗北に終わった争いなんだけど(たぶんそれが文部省三流官庁という流れを決定したのだと思う)、背景には、高校進学率をできれば6割、せいぜい7割ぐらいで押さえたい文部省 VS せめて8割、できれば10割にしないと国際競争に負けるという経企庁その他との争いというのがあって、しかも国民世論の圧倒的多数の支持を背景に、この普通科高校の設立は保革を問わず政治家にとってはリアルに票になる(公共事業にもなる)。豊かさというか上昇への欲望の肯定が、戦後を規定していたのなら、まさにそれこそが戦後のイデオロギーだったのだな、と思う。立身出世は明治以来の日本人の個人主義的な心性をよく表す言葉だけれど、敗戦もあってのことだけれど社会階層の撹拌とまでいえるような大衆運動となったのはやはり戦後のことなんだろう。
野中広務という政治家は、田中角栄蜷川虎三の間にいたということか。
けっこういま気になっているのはいわゆる「ゆとり教育」で、あれは文部省も好きだし、教組も大好きなんだよな。(じつは心の教育も教組のほうは心の教育っていわないだけで。)
そのあたりイデオロギーは、社会は変わりつつあるんだろうか?
なんか書き出すとキリがない。

Christopher Laschって、あんがい重要だと思うんだが、あんまり言及されないよな。おもだった本の訳はそこそこあるみたいだけど、ちゃんとしてないのかな? 仏訳はけっこうあって、それで知ったんだけど。(あっ現代思想なひと、バリバールもほめてましたよ。)アダチル大統領クリントンの尊敬する学者ってのが、なんとなく笑えるんだけど(呼ばれてホワイト・ハウス行ったらしい)。そういえばクリストファー・ラッシュ的にいうと、執務室でモニカ・ルインスキーとあんなことしてたクリントンがアダチルだっていえないこともない(「ナルシシズムという文化」)。
The Culture of Narcissism: American Life in an Age of Diminishing Expectations (English Edition)

The Culture of Narcissism: American Life in an Age of Diminishing Expectations (English Edition)

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あと下にも書いたけど、こういうのもあります
http://www.ganism.com/gogai/nonaka00.htm