やった!

寛容論、今日は8人。出席者一気に四倍(当社比)。8回かかってやっとLockeの寛容論を終わる。次はHenry VIIIの話を簡単にして、Pierre Bayle, Jurieuのあたりの議論を紹介する予定だが、イギリスだけで終わってしまうようなきもするなあ。とりあえずKantorowiczの再読をしておかねば。
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2年生演習では、(テーマだけは)好き勝手やらせている。今日はロスタフ話と個性尊重教育(中教審答申)。まあじょじょにではあるが、格好はついてきている。
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終了後、次回発表の学生さん、小一時間ほどねばる。ディズニーランドの心理学だとか、なんとか、当初の予定を全部却下。馬鹿な本を読むと馬鹿になるのだが、たしかに街の本屋には馬鹿な本しか置いてない。
とりあえず、手近にあった三浦展の郊外論を押しつける。ちと遠いがまあ関係がないわけではない。想像力があればつながりをつけることはできるだろうと期待。
なんだか場所をとるし、時間ももったいないから買いたくないのだが、新書は買っておいて常備しておかないと学生さんに押し付けるチャンスを失う。

本は「いまここ」で押し付けないと学生さんはなかなか読んでくれない。まるで自我というものがなければ、薦めた本を薦めたままに読むのだろうが、いちおう興味がある領域はあったりして、何でも読むというわけではなく、それどころか頑強に異なる(と思われる)領域のものは拒否する場合が多い。学問の制度的なジャンルは奇妙に実体的なものであると考えられており、なぜかその枠組みを過剰に尊重する傾向がある。専門分化が早くから進んでいるともいえる(が、どうも教える方にも問題がある可能性は高い。「学際」などという人もいるが(そういう人に限って?)、制度的なジャンルを実体的にとらえ、fetischismus的に愛好していたりする。)。
それだから、あらゆる機会に、記憶を総動員して、なんだか関連のありそうな本を探し出し、virtuを発揮し、いやがる学生にチャンスを逃さず(薄い)本を押し付けておかなければならない。さもないと当人は発表の直前に、雑多な本のなかからランダムに選択し、当然のことながら、かなり高い確率でそれは鼻くそのような本で(スタージョンの法則)、どうしようもない発表を聞くはめになる。
くだらない本は売らないってわけにはいかないよなあ。せめて買わないようにしたいのだが。