頭が

なかなか組合モードから抜けない。授業で教育と労働(雇用)がテーマになりつつあるせいもあって、気を抜くと組織のことを考えている。翻訳も労働と社会がテーマだし。困った。

しかし大学問題を入り口から考えるのは大きく間違っていることは理解できた。まだしも出口から考える方が筋はいい。大学が社会のなかでどのような役割を担うのかということが根本的な問題であるからだ。

ただその問題はだいたい60年代に後期中等教育の問題として考えられていたことで、それを現在では大学と称する機関が考えているということになる。そのぶん余分な方程式が当時よりも一本多い。過剰決定である。

一番すっきりした回答は、旧帝大復活かつ学生定員削減だ。所与の条件が変わらなければこれがいちばんわかりよい。単純に言えば、たとえば勤務校など「大学」をもう名乗らなければ、かなり多くのことに片がつくのではないかと「改革」のあれこれを見ながら思ったことがある。

だいたい大学院重点化も、まあそういう方向で考えてのことなのだろうが、こんな有様になるとは考えた方も思いもよらなかったことだろう。が、高校全入運動の勝利を考えれば、そのやり方でうまくゆかないのはあらかじめ想像可能だったはずだ。つまり一番すっきりしているように見える答えは答えではなかったということだ。

しかし外からのプレッシャーがないと組織が変わらないことも確かだが、だからといって社会の要請に応えましょう式の発想は、あまりに頭を(体も)使わなさすぎでもある。

勤務校もエクステンション・センターだとか、名前ばかりは麗々しいものを作るのだが、これも一種の箱もの行政で、中身が考えられないから、ついつい社会のご要望にということになる。その場合の社会というのは声の大きい人(組織)にすぎないのだが。

だいたいセツルメントというのが日本初のuniversity extensionの実践だったはずではないのか。出張講義にやれノルマ何件というのもしかし馬鹿な話だ。内側からまっとうに考えて社会に出て行くということを繰り返せばすむことではないのか。組織としてやることはそういう活動のサポートで、だからマネージメントなんじゃないのか。そう考えるとSTSの活動というのはやはりなかなか大事なものだと思う(おーい元気か)。就職の世話をするばかりが能でもあるまい、などとつらつら考えてしまう。もうそういうことを考える時期は終了したはずなのに。リハビリには時間がかかるなあ。はやく18世紀に戻らないと。
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遅ればせながら上山 和樹『「ひきこもり」だった僕から』を読む。いろいろ読んだがやはりこの本から一番示唆を受けた。
「ひきこもり」だった僕から

ぐおー授業と関係のない本が読みたいーぐうううう。