研究会ふたつ、と草野球(サッカーでもいいけど)

京都ではあるフランス人研究者の60年代の私史。発表は、soif乾き、飢えという言葉から始まり、styleスタイルという概念で終わる。もちろん彼我の差は歴然としているのだが、スペイン国境にほど近い町から10代の終わりにパリに出てきた少年であった自分を振り返りながらの話はその語りの複雑さとともに印象に残る。ぼくは素人amateurだからと何度も繰り返していた。
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前にフランス語で書いた論文を見てもらった時、ぼくはamateurだからと言ったら、添削をしてくれた女性にそういうことを言うものではないとたしなめられた。まだまだそういうことを言って様になる年ではなかったということだな。含羞を表現するにはまだ若造ってことか。

ただ、趣味とデモクラシー、の話に関連していうと、あまりにも階級差を想起させる、「趣味」よりは「スタイル」のほうが概念としては適切かもしれない。けどスタイルとデモクラシーってなんかかっこ良すぎる組み合わせだなあ。それもちょっと趣味じゃないなあ。
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大阪では打って変わって若いフィールド・ワーカーの発表。時間がなかったようだけれど、時間がなかった時に慌てて体裁を取り繕うとき(これは誰にでもある)に何を優先するか、というのを間違えたような気がする。遅れていって申し訳なかったんだけど、遅れて入った瞬間に、先行研究は以上のようなものです、という言葉を聞いたので、ああよかった、本題はこれからだと思ったら、本題の方があっというまに終わってしまった。
研究会って、頭寄せあってなんぼなんだから、そこは一例でもいいからなんか具体的なケースだした方が良かったんじゃないかな。本人がケースみたいなもんなんだし。
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この辺は微妙なんだけれど、たとえば国文学のような文献学の伝統が強いところ(これはドイツのそれを輸入したものだが)では、たしかに先行研究への言及によって論文が成立するというスタイルはある。「先学のいうところでは・・・ただし・・・」。
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ただしそれは先学の蓄積こそが、フィールドそのものを構成している学問の領域であるから成り立つことであって、人文社会科学系統ではかならずしもすべての学問領域でそれが可能となるわけではない。たぶん制度化がきっちりされていればいるほど、「先学いわく」スタイルは、まあ仕方ないかなとおもう。

社会学はどうなんだろう。部外者だからさ。わかんないけど。

問題は、いわゆる現代思想みたいなものの残滓が(スタイルというか外見として)わりと残っているから、その辺が、ちょっと微妙な感じをかもし出すようにも思う。端的にいえば「現代思想」がアカデミズム批判であるのならば、「先学いわく」のスタイルはむしろとれないだろうと思うのだが、かえって、そういう傾向が強くなっているのは、なぜだ?。でりだがあ、とか、どぅるーーーずがああ、とか、らかああんんがあああとか。
いや読めばいいし、読まないといけないんだが、先学いわくではまずいだろう。
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むかしたまたま用があってJ.-L.Nancyを読んでいたときに電話がかかってきて、何読んでるって聞かれたからナンシーっていったら、電話口で、「ええ、ナンシーって右翼でしょー」って大声で言われて、それがmayakovの耳にも入ったみたいで、インテリの会話は奇妙だって大笑いされた。しばしばそういう会話をしてしまうこっちとしては、笑われても困るんだが、よく考えると会話はつながっているようでつながっていない。「うんナンシーは右翼だよな」とか言ってもなあ。そもそもナンシーって誰だ?
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理論と日本の人文科学は若干不幸な出会い方をしてきている印象があって、たとえば数学を使う学問の場合、天才は知らないが、ふつうの人間は練習問題を解いてみないと、あるいは実際に論文書いたりしないと本当には道具として「理論」が身に付かないというのは誰もがいうことだ。
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しばしば理論的と称される論文はあれは、まあ少なからぬものが、たんなる紹介であったり要約であって、まあそれはたしかに賢くないとできないのだが、どうも優秀なリソースをそこに投下してきた歴史があるせいか、どうもそれ「こそ」が研究とみなされる傾向がちと強すぎるのではないかと思う。
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ときどき「あれはフーコーの応用にすぎない」とかいう批評というか悪口を読んだりするけど、逆に、フーコー的なものの見方を、ちゃんと応用できている論文って読んだことがない。あれは大量のつまらぬ文書を読むところから始まって、そこから構造をなり概念の連関なりを発見していくわけだが、どれくらいの人間がそういう作業をしてるんだろうか。
その悪口を書いた人間は、どうもそういう論文ばかりで、つまらないというニュアンスでその文章を書いていたようだが、逆に、僕なんかの印象では、どれもこれもフーコーについて語ることばかり多くて、実際に真似でもいいから応用してみようという論文のほうが極小だ。ちなみにそう語ったある研究者の論文を読んだことがあるが、小器用なだけでちっともおもしろくなかった。
野球をしたければ、草野球でも何でもいいから実際に野球をするしかないだろうと思うのだが、野球について語るということもまたジャンルとして存在することは認め、尊重するが、けど草野球でも野球しないことには始まらないだろう、と思う。