あれこれ

大塚英志の『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』筑摩学芸(ISBN:4480088768)をトイレでつらつら読む。68年には何の思い入れもないけれど、80年代という記号には、やはりそのなか、なのか傍らなのかを通過してしまったという思いがあるだけに、少なからぬ関心を抱いてしまう。
多くの書き手が失速していったり、メッキが剥がれたり(余も対奴婢子)してゆくなかで、大塚英志は、きちんとしたものを書きつづけている。彼の関心はぼくの関心ではないのだが、当初の関心を持続するその仕方、あるいは自分が若くしてかかわった(中間的なメディアのなかで、ニュー・アカと呼ばれたり、オタクと呼ばれたり、フェミニズムとよばれたり、ポストモダンと呼ばれたり)「運動」にたいするオトシマエのつけかたに、関心があるからだ。
そのかかわり方が、好ましいというか、やはり読むべき価値があるなあ、と思うのは、江藤淳を「読んで」いるからであって、同じように江藤淳にかかわりながら、江藤淳を「読もう」としないあれやこれやの同世代のひとびとと、そこは対照をなしているし、貴重なものであるとおもう。江藤淳の私的な思考のありようにはあまり共感をもてないが、江藤淳を読む大塚英志には、共感とはいわぬまでも、尊重すべき何か、読んで考え直すべき何かがあるように思う。
まあそういうことでいうと上野千鶴子もう少しガンバレ、という感じだ。賢いのにもったいないぞ。
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そういうの(センモーン外の仕事)はウンコ仕事だと思っている人もいたりするようなのが、つらくもあるのだが、1・2回生向けの入門ゼミや情報処理の授業をよく振られる。まあ時々うまく行かないことも含めて、わりと面白いのでホイホイやっている。最近ようやく、なんだけれど、黙っていることを覚えてからは、面白いことのほうが多い。
ただ学生さんと話をしていて、いつも思うのは、読む能力と表現能力でいうと、圧倒的に足りないのは前者の能力だ。学生さんは自分はどうも表現能力がない、と思っているみたいだが、一定の条件が揃うと、べらべらいつまでもしゃべることができる。が、議論を見ていてもハッキリしているのは、相手の言うことを聞くことに興味のない人が多い。社会人学生でもそれは同じで、とにかく表現はうまいが、相手が何を言っているのか、ちゃんと聞いてみようとはしない。(聞いてるふりとかしてても、聞いてないのはまるわかりだよー。)
フィールド・ワーカーの人に聞いても、人の話を聞かない奴がいきなりフィールドに行きたがって困るとぼやいていた。なんちゅうか、あふれんばかりの同情心と問題意識はあるのだが、そんなもんを持って行ってフィールドで表現されては、それは相手が困るが道理だ。
こっちはとにかく文章を読ませるのが商売だから、文章を読ませてレジュメを切らせるのだが、自分の気持ちやワタシの感想、などを書くという読書感想文体質を直すのに、毎年結構苦労する。(というか、この間の「じょうきょう」にもあったよな。読書感想文。)いいんだよ、おざなりな感想は。著者の言ってることに、まずはまあちょっと耳を傾けてやってください。ということなのだが、たしかにこれは大学の授業ではない、と思う人がいるのも無理はない。無理はないんだが、なあ。

読むことが受動的で、表現することが能動的だなんて、誰が決めたんだ、責任者でてこーい!
というか能動性のほうが受動性よりもエライだなんて、決めたのは誰だ!

読むというのは技術だと思うんだよな。で、経験が教えるところによると、「ある程度までは」訓練で、身につけることができる。この訓練はしかし自分でするものなので、まず最初に必要なのは、読むということについての別の「観念」だ。それがぼんやりでもいいから腑に落ちてくれれば、後はまあ放っておいてもいい。というか、そっから先は知らん。けど、このことを知らないで卒業してゆく学生が多いことについては、しかし申し訳ないと思う。本の読み方を知らない教師はまだまだ多い。

大学はいまようやく振返って自分の姿を見ようとしているところだから、許しておくれ。俺たちのような平民が大学教師になれるようになって、おれたちは舞い上がっていたんだ。たぶん。そんな時は自分の姿は客観的には見れないものだ。高度経済成長が終わってまだ30年とちょっと。バブルまで入れたら、20年もたってないんだ。

ていうか、対象とどうかかわるか、なんだろうけど。つい対象を自分の尺に合わせてしまう。というかこちらから過剰に働きかけてしまう、というか「対象」にしてしまって、対象からの働きかけを待つという作法がない。読む、というのはそういうことでもあるんだが。

ああ、一般論になってしまうな。しかしあんまり具体例を出すのも具合がわるいし。
いや、ワタシがワタシが、っていうのがうっとおしいという話なんですが。

青木玉とか、文章は悪くないと思うんです、思うんですが、まああれくらい書ける人が、書かずにいた、ということの意味とでもいいますか、たぶん読むことのほうが先にあったと思うんですよ。そのほうが結局はなんというか豊かであるというか。
いったいいつから読まずに書く、書かねばならない。表現しなければワタシはNULである。NULであるなら死んでるのと一緒じゃ、ということになんでなってしまったんですかね。すごく貧しいことになっている気がするんですが。見てて、痛いわけです。ぶつぶつ。ちゃんと享受できるほうが、いいと思うんですが。そういう人にどう享受したか聞いたら、すごく面白いわけでしょ。結局。

書かずに済めばそれに越したことはないと思うんですがね。