頂き物。

解説を書いている市野川さんから御恵投いただきました。

コント・コレクション ソシオロジーの起源へ (白水iクラシックス)

コント・コレクション ソシオロジーの起源へ (白水iクラシックス)

白水から、白水iクラシックスなるものが出ているのは、気がついていたのですが、版の切れた旧訳を新装版にして出していると勘違いしており、気にもとめていませんでした。今回送っていただいたこの書物を拝見すると、このコント・コレクション(『実証政治学体系』に付された初期論文集)は杉本隆司氏による新訳であり、ざっとページをめくってみたところ、訳注なども適切で、安心して使えそうなものでした。
19世紀はぼくにとってはとりわけ苦手な時代なので、ありがたく頂戴して勉強させてもらおうと思います。
市野川さんの解説は、ブレンターノ(B)とデュルケーム(D)という20世紀を予告した二人にたいして、そのいかにも19世紀的な先行者としてコント(C)を置くというものです。Cについてはアロンの意見を容れつつ、コントには中間集団という契機が欠落していることを指摘し、それゆえにBもDも、それぞれに営業条例および結社の自由の承認という政治的変化をうけて、この媒介の水準を導入しているのだと述べています。そしてそのうえで、この「中間集団」の性格付けについては、より「社会学的」なデュルケームと、より「政治経済学的」なブレンターノという、現代的な関心に引きつけた整理になっています。
それにたいして、コントに固有の「社会」モデルとしては、同時代の生物学の影響のもとで成立したある種の全体主義という、そのかぎりにおいては否定的な評価がなされており、いわゆるBとDの「社会的なもの」にたいして、その特徴である「宗教的なもの」の契機については、軽く触れられる程度にとどまっています。
その意味では、この訳書には訳者解説は付されておらず、続巻としてまもなく刊行されるのであろう『科学=宗教という地平』に付されるということですから、そこで訳者の杉本氏がどのような解説を書かれるのか楽しみに待ちたいと思います。

2011年に記憶に残った本

たくさんのひとが、本を紹介しているのを見て、自分も2011年のベストのようなことをやろうしてみたのだけれど、さっとタイトルが上がらなくて、自分の勉強不足を痛感することになってしまう。読み終えた本はひどく少なく、それに2011年に出た本もほとんどないけれど、去年読んで記憶に残った本をいくつか書いてみる。重要であるにもかかわらず、読んだこと自体忘れてしまった本もきっとあるはずで、その意味では不十分なリストだ。
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自由を生きる―奇妙な家出少年の歩み (ちくま少年図書館 45)

自由を生きる―奇妙な家出少年の歩み (ちくま少年図書館 45)

これはとても面白かった。著者の江口氏はフランスでエコノミストをしながら亡命ギリシア人・・・なんだろう、ジャンル分けするのは難しいけれど、あえて言えば政治哲学の本を書いていた亡命ギリシア人カストリアディスの本の訳者である。それに彼の活動と思想についての本も書いている。
カストリアディスは数奇なといってもいいような人生を送った人だが、訳者の江口氏の生き方も負けずおとらず面白い。敗戦直後の日本の社会の混沌ならでは、ということなのだろう。たしかにある時点では日本の経済成長がこうした人生を可能にした側面は否定できないのだけれど、とはいえ隙間の多い時代だったということのほうが大きいように思う。それはやはりとんでもなく面白かった
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

なんかを併せ読むと分かってもらえるかもしれない。あるいはまたこんな時代がくるのだろうか。

併せ読むといえば

大山倍達正伝

大山倍達正伝

と併せ読むのもいいかもしれない。

しかし江口さんのこの本は切れているようだ。出版社も見る目がないひとが多くなってしまったようで、面白い本を抱えて死蔵してしまっている。

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去年はやっぱり震災関連でいくつか本を読んだ。久しぶりに自発的に考えたことを文章にしようと思ったせいもある。結果としては私的な研究会や、やや公的な会でしゃべることにもなった。たくさん本を買って読んだけど、まだ全部を読めたわけではない。印象に残ったのは

わりと批判するような感じのことを書いたりしゃべったりしたけど、このエリートパニックという概念はやはり重要な指摘であると思う。
あとクラインのこれは、いろいろ勉強不足なところは多いのだけれど、ジャーナリストらしく、ちゃんと読むと拾い上げるべき論点はいろいろ出している。生意気な学生さんとかがネオリベネオコンで、とかそういうところに引っかかってしまうのは分かるんだけど。
それと関曠野はやっぱりひとを考えさせるところがある。
フクシマ以後 エネルギー・通貨・主権

フクシマ以後 エネルギー・通貨・主権

あと
科学の世紀末―反核・脱原発を生きる思想

科学の世紀末―反核・脱原発を生きる思想

87年に出された本の新装版。出た当時買って読んでいるはずなのだけれど、まったくが記憶がなくなっていた。この87年当時の感覚が2011年3月の時点では、まったく風化してしまっていたということにも驚く。
あとこの辺の問題にネタを振ったつもりだったのだけれど、あんまり突っ込んでもらえなかった。
Before the Deluge: Public Debt, Inequality, and the Intellectual Origins of the French Revolution

Before the Deluge: Public Debt, Inequality, and the Intellectual Origins of the French Revolution

これはテレビのドキュメンタリー。これは洪水の「あと」のニュー・オールリンズ。
When the Levees Broke [DVD] [Import]

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このひとの映画はタルイと思うことが多いんだけど、これはどの映画よりもいいんじゃないかな。
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あと少し大阪の町を歩くということを続けている。その関連では
安治川物語―鉄工職人夘之助と明治の大阪 (都市叢書)

安治川物語―鉄工職人夘之助と明治の大阪 (都市叢書)

これは大阪の西側。東側では
異邦人は君ヶ代丸に乗って―朝鮮人街猪飼野の形成史 (1985年) (岩波新書)

異邦人は君ヶ代丸に乗って―朝鮮人街猪飼野の形成史 (1985年) (岩波新書)

大阪ではないけれど、こういう土地の感覚は
パリ南西東北

パリ南西東北

ドアノーの郊外写真集の日本語版があるのは知っていたのだけれど、サンドラールの文章は部分訳なんていう頭の悪いことをしているとは知らなかった。この本は、その全訳。サンドラールはちょうどフランスにいる頃にしゃれた装丁の全集が出始めていて何冊か買った記憶がある。
小説もたくさん読んだはずなんだけど思い出せない。ひとつだけあげれば
その街の今は (新潮文庫)

その街の今は (新潮文庫)

この本では意識して地名をたくさん出していて、土地の顔と記憶を刻もうとしているというのはよく分かった。
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勉強もしなかったわけではないんだけれど、勉強不足なので気恥ずかしい。
労働時間の政治経済学 ?フランスにおけるワークシェアリングの試み?

労働時間の政治経済学 ?フランスにおけるワークシェアリングの試み?

自分自身は度し難い下部構造重視派なのだけれど、とはいえ、ワーク・シェアリングについては、やはり紋切り型の理解しかしてこなかったことがよく分かった。この政策的含意は、有給休暇がそうであったような意味で、社会的に重要なのかもしれないという気もしてきた。メディアもわかりもしない財政の問題とかで中二病的に噴き上がっていないで、こういう労働時間と社会生活というようなことをじっくり追いかければいいのにと思う。
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こうしてあらためて見直すと、なんかひどく雑多で残念な感じだ。

補遺2

 二人の脳裏にはいまだかつての廃墟だった頃のイメージが強く残っていたので、突然目の前に現われた高層ビルが、まるで廃墟の地底から現出したような錯覚に陥ったのだ。
「凄いな。いつの間にこんなものができたんや」
 二人はしばらく林立する高層ビルを呆然と見上げていた。
「何やしらんけど、SFの世界に迷い込んだみたいや」
 金義夫は口をあんぐりと開けたまま、あとの言葉が続かなかった。
「まるで浦島太郎の心境や」
 と張有真が言った。
 右手には京橋と森ノ宮の間に新設された大阪城公園入り口があり、左手には巨大な亀の甲のような半円形の大阪城ホールが地面にどっしりと腰をすえていた。大理石とガラスと金属で組み立てられた高層ビル群が太陽の光を反射して二人には眩しく映った。石畳の広場は大阪城に通じており、川向こうに渡る橋がかかっていた。二人は見慣れぬ風景に戸惑いながら橋の方へ歩み寄った。橋の袂には「弁天橋」と刻まれていた。
「この橋に守衛小屋があったのかな」
 金義夫は目測で橋から環状線までの距離を測りながら、
「鉄橋からもっと離れていたような気がするけどなあ」
 としきりに首を傾げていた。
「この橋や。この橋に守衛小屋があったんや」
 首を傾げている金義夫に張有真が断定した。
「あの頃に比べたら川の水がだいぶきれいになったけど、まだかなり汚い」
川底からあぶくこそ浮き上がらないが悪臭を漂わせている。橋の欄干にもたれて、二人はようやく煙草をふかした。

夜を賭けて (幻冬舎文庫)

夜を賭けて (幻冬舎文庫)

これは梁石日『夜を賭けて』の終わり近く、アパッチ族であったふたりの青年が、年を経てふたたびかつて彼らが鉄を掘り出していた鉄の森林、旧砲兵工廠跡で再会したときの場面である。旧砲兵工廠はこの小説にあるように、現在では再(?)開発によって大阪城ホール大阪ビジネスパーク、そして森ノ宮の広大な操車場、都市公団の巨大な団地群へと変わった。
地図
大阪城ホールの完成が83年、ビジネスパークの建設も同年に着工されている。為替管理の自由化により資本移動が自由化が進み、日米の経常収支の「不均衡」(対米貿易黒字)がことにアメリカ側から問題視されるようになる時期である。1985年のプラザ合意後に進展した急激な円高対策として86年日銀は大規模な金融緩和(当時は公定歩合の引き下げ)を行ない、その年の末にはいわゆるバブル景気が始まることになる。ビジネスパークの中心TWIN21という一対の高層ビルが完成したのはこの年である。バブルを象徴するゴッホのひまわり落札は、早くもその翌年であった。

ぼくがはじめてこのTWIN21に行ったのはおそらくはまだ高校生の頃だった。このビルができるまで大阪を象徴するビルと言えば梅田にある丸ビルか、やはり梅田の阪急グランドビルだったのではないだろうか(31階建てのこのビルの27階から最上階までを占めている飲食店街が32番街という名前であるのは、あるいは階数を地下一階から数えていたからだろうか)。このTWIN21を入るとすぐに広がっていた吹き抜けの大きな空間(あるいは今となってはささやかなものなのかもしれないが)は、1976年に完成した丸ビルと翌年完成のグランドビルをたちまち時代遅れのものにしてしまった。低い天井の箱を上に積み上げただけのふたつのビルに比べるとずいぶんと垢抜けたものに見えたことを覚えている。

そういえばバブルとはは建築的にいえば吹き抜けがその象徴であった。

90年に松下IMPビルクリスタルタワーなどが竣工し、この「新都心」も事実上完成する。インターナショナル・マーケット・プレイスの頭文字をとったIMPビルには、たしか常設の見本市的な機能を期待されたはずのショッピングモールが開かれるはずであったが、89年に日経平均が最高値をつけた直後から、まるで坂を転げ落ちるように株価は安値を更新し続け、花と緑の博覧会が開かれたこの年、日経平均は早くも2万円を割り、バブルの崩壊はすでに誰の目にも明らかなものになっていた。「国際色豊かな」ショッピングモールにははやくもいくばくかの寂寥感すら漂いはじめていたことは生々しい記憶として残っている。ぼく自身最後にこのビジネスパークに行ってからはすでに10年近くが過ぎている。ビザの取得のために訪れたクリスタルタワーのフランス領事館もいまは一部機能を残して京都へと移転してしまった。

ただし後日談と呼ぶべきものは残っている。ひとつはもちろん東京に遅れて始まった都心部の大規模開発であり、梅田周辺はようやく80年代以来の老朽化したインフラを一新しつつある。もうひとつはやはり都心部での大規模集合住宅の開発である。それは現在進行形で大阪の風景を不可逆的かつ劇的に変えつつある。だがそうした波が梅田から環状線に沿ってこの旧砲兵工廠跡にまでようやく広がろうとしたとき、今度はアメリカのバブル崩壊がふたたび大阪の「開発」の足を挫いたようにも見える。

2009年から10年にかけて、日本の他の地域の人びとにはほとんど知られることもなく、大阪府庁の大阪南港の埋め立て地への移転計画が、ただ関西のメディアだけを席巻した。この計画によると府庁移転後の跡地には府立成人病センターがやはり移転することになっている。森ノ宮駅西側に隣接地であり、操車場と都市公団団地の道路を挟んだ向かいである。ふたたびの再開発がこの地を洗うことになるということでもある。あの話題はあるいはむしろこちらにフォーカスを当てるべき問題なのかもしれない。

そしてそれはまたしてもバブル崩壊のあとのことであった。

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補遺

わが大阪の明日は、工業地域、準工業地域住居地域、商業地域と、区分けはいまよりもさらに画然となり、その間を縦横に広々とした道路が貫通している。地下鉄は高架となって、市内から市外各所にのびている。千里山の団地はすでに完成して日本一の規模を誇っている。海は埋め立てられ広大な工業団地となり、大鉄鋼コンビナートをはじめ、かつては空想科学小説の世界しかなかったような重化学工業センターがそこに現出している。市内の数カ所に大公園があり、大阪城森林公園がその名のとおり実現されていることはいうまでもない。京阪神の三都は完全につなかって一つの帯状都市となり、遠くに明石海峡の夢の架け橋が見える。

これは「めし」が書かれてからおよそ10年後、市内のデパートで行なわれた「明日の近畿と大阪展」と題されたイベントで、そこに展示された未来の大阪の姿である。「商売人の町だといわれてきた大阪のその大阪らしさとはちがった、それよりも一まわりも二まわりも大きい、解放された大阪がそこにあるような気がして、わが大阪もなかなかやるわいと思ったのである。」そのように書く小野十三郎は、たとえば織田作が描いたような観光地としての大阪、あるいはまた書き割りめいた「どこんじょ」や「どしょうぼね」の大阪に冷や水を浴びせかける大阪生まれの商人の息子でもある

作者(注:織田作之助)は、どんな事態にも適応してゆける大阪人の伝統的(?)な粘り強さに根っからほれこんでいるようであるが、そんなものが作者の言う大阪の市井という魂の故郷の再発見になるかどうか私は疑問に思う。

たしかに織田作の曾根崎は過去に寄りかかることはあっても、未来を生み出すことはできなかったと今となっては言わざるをえない。あるいはまたがめつさ、抜け目のなさといったカギ括弧つきの「大阪」的特徴にたいしても

・・・現代の商売や事業はそんななまやさしいものではない。したがって、じっさいに根性をもって仕事をしている者にとっては、そんな言葉は禁句であるはずで、看板にもなんにもなるものではない。バカでないかぎり、そんな前近代的な気質で商売したり事業を起こしている者は大阪には一人もいないだろう

という冷ややかな視線を崩さない。
そうだからこそ小野十三郎文楽を拒否し、浄瑠璃を拒否する「とにかく、道楽にせよ、学問考証にせよ、大阪の諸人士が自分の経験にものいわせて語る大阪文化のその文化の内容には、文化の名において、われわれが継承するに値するものは、その人たちが考えているほどはたくさんない。」小野がこのように書くとき、彼の念頭にあったのは江戸期の文芸だけではない。小野の否定はいっそう深いところを穿つ。その否定は、「大阪」を利用し、スポイルするあらゆる紋切り型に向かう。彼がここで拒絶しようとしているのは、四十代のとき、焼け跡のなかでなんとか食いつなぎながら、徘徊した焼け跡の思い出である。時が過ぎ、ふと気がつくといつのまにか思い出として美化されてしまった闇市の風景にたいしてさえも、結局は「老人どうしの一種のなれ合い」にすぎず、そこには「次代の人間に役立つような人生的な意味あい」などはいっさい存在しないのだと書く。彼は過去を切り捨て顧みない。
だからこそ彼は重化学工業の大阪を選ぶ。この大阪は現在であるからだ。小野にとって記憶は現在である。当時まだ残骸としての残っていたアジア最大の兵器工場、旧砲兵工廠を残骸のまま残すべきであると彼がいうのは、それが「遠い歴史や伝統にかかわるものでなく、ついきのうそこにあった」ものだからであり、もしその提案が実現していたら、やはり当時そう提案されていた大阪城「森林」公園のなかに「巨大な鉄骨の林」がそびえることになっていたはずである。巨大なこの鉄骨の林はそこで鉄を食ってその身を変容させていた「アパッチ族」とともに現在のわれわれの記憶の一部であったかもしれない。そのような現在もまだこのときは可能性として存在していた。

日本アパッチ族 (光文社文庫)

日本アパッチ族 (光文社文庫)

日本三文オペラ (新潮文庫)

日本三文オペラ (新潮文庫)

夜を賭けて (幻冬舎文庫)

夜を賭けて (幻冬舎文庫)


だがぼくらが手にすることになったのは、花と緑の博覧会であり、大阪城公園で観光客を案内するのは、仮装したボランティアたちである。

カール・サンドバーグのシカゴに半世紀後の大阪の姿を見た小野十三郎は同時に不安の影をも読み取っている。

岸里、天神ノ森2

南大阪と天王寺を結ぶ上町線恵美須町を結ぶ阪堺線はちょうど阪神間がそうであるようにそれぞれが異なる階層の人びとが住む地域を結んでいる。『めし』の主人公である三千代が使っている天神ノ森の駅は、より貧しい地域を通っており、高級住宅地である彼女の叔父が住む帝塚山へは分岐点まで戻って引き返さないとこの路面電車を使っては行くことはできない。もちろん、すこし足を伸ばせば、いまはもう存在しない南海本線高野線の岸ノ里駅を使うことができたはずだ。南海電車の二本の路線が現在交差しているのは天下茶屋の駅であるが、当時は岸ノ里が乗換駅だったからだ。ただしこの岸ノ里という駅はいまはもう存在しない。この路線が高架化されたさい、隣駅の玉出駅と合わせて岸里玉出という駅にまとめられたからだ。現在、南海高野線は岸ノ里を過ぎると南海本線に合流し、ミナミの中心、難波へと至る。かつての高野線は岸ノ里から先をいわば切り離されてしまった。いまでは岸ノ里から先、汐見橋まで、事実上の支線として、時代から取り残されたようなたたずまいで存在している。

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路面電車の路線では、高台側と海側というかたちで交わることなくふたつに分けられていたこの地域は、南海電車ではX字に交わるかたちでつながれている。その交点であった岸ノ里から高野線に乗れば帝塚山へは一駅であり、たしかに小説でも難波からこの親戚の家に行くさいにはこの南海高野線が使われている。もっとも彼女の住む天神ノ森からであれば、おそらく電車に乗る必要はない。少し歩けば北畠であり、天下茶屋である。ここはあくまで中間地帯であり高級住宅街ではないが、貧民街でもない。いわばここはどちらにも属さない、いやどちらの世界ともつながっている中間地点なのだ。
いや、いまになって振り返ってみると、かつての高野線は大阪の過去と未来とをつないでいたのだ。北西に目を向ければ汐見橋線が延びている。岸ノ里から先、西天下茶屋、津守、木津川、芦原、汐見橋という駅の名前からもわかるように、埋め立てによってできたこの地域には工場地帯のなかに庶民的な商店街と住宅が広がっている。ちょうど大阪のある種のステレオタイプなイメージといってもいい。そういえば双子の女性(ひとりは将棋指しになる)を主人公にしたNHKの朝の連続ドラマの舞台となったのがこの西天下茶屋であったはずだ(この西天下茶屋と新世界がひとまとまりのように扱われるのは、いささか不自然でもある)。つまり商業の大阪と工業の大阪が大阪にはあり、西天下茶屋から汐見橋に向かうこの路線ははっきりと工業の大阪を代表している。ちなみ現在この汐見橋の駅からすこし歩いて阪神桜川駅に乗り換えれば、西九条、そして西淀を経て尼崎へと続いている。南海本線を南に向かえば、住之江から堺へと至る、やはり葦原を埋め立てて作られた重化学工業地帯が広がっている。工業の大阪、庶民の大阪でもあれば、公明党共産党の大阪でもある(あった?)。
初之輔と三千代がいた天下茶屋から天神の森、岸里といったあたりは、文字通り交差点である。商業の大阪、難波や千日前、新世界から帝塚山へと至る大阪は、商売人の大阪、すでに進行していた阪神間と東京への人口と富と、文化の流出によって消えゆく大阪であり、高台とそれを見上げる貧民の大阪である。いっぽうこの夫婦の目に入っていない、脇役として存在しながらしかし、背景にとけ込んでしまっている「大阪」は、工業を中心とした埋め立て地の大阪であり、これからしばしのあいだ、はかない繁栄を迎える新しい大阪である。東京から都落ちしてきた若夫婦の目の前に広がっていたのは、ふたつの世界が入り交じる曖昧な空間である。すでに朝鮮戦争は始まっており、製造業を中心とした新しい大阪には朝鮮半島で流された血で購われた新たな時代の繁栄が訪れつつある。初之輔が勤める北浜の株屋にはたしかにいまだその繁栄の余波は訪れてはいない。しかし大阪が工業の大阪として成長の波に乗るならば、この北浜も株屋も証券会社としてその成長の果実を分け合うことになるだろう。
だがそれはもう少し先の話である。この段階ではふたりの未来がどちらのほうを向いているのかは判らない。姪の里子に言い寄っては、すげなくあしらわれる長屋の無職の青年はおそらくは新しい大阪を支える工場労働者にその職を見いだすだろう。東京から来た夫婦はどうだったろうか。もう少し東側の住宅地帯へと階層の上昇を果たしただろうか。あるいは10年を待たずして始まるニュータウンの開発を待って、北摂へと向かっただろうか。
***
だが不安と可能性に満ちたこの興味深い大阪は残念ながら描かれることはなかった。『めし』が始まってすぐに観光が始まる。東京から家出してきた主人公の初之輔の姪、里子を案内するためだ。

ここから、少し参りますと、その名も優しい蜆川や、蜆橋のあったところでございます。近松門左衛門の、心中天の網島に、小春治兵衛の、涙川として、死の道行きに、艶名をうたわれました、名高いところでございます。

だが、すでに蜆川は埋め立てられ、「今は、その面影さえも」ない。近松の物語から道頓堀とジャンジャン横町という観光地を過ぎれば、いずれ物語そのものが東京の郊外へと舞台を移してしまうだろう。天神ノ森も岸里天下茶屋も、この物語からは見捨てられ、記憶を喚起する力を手にすることもないまま、現実の世界でもそのつかの間の繁栄からいつしかとりのこされてゆく

岸里〜天神ノ森

林芙美子『めし』は小説というよりもむしろの映画のほうが有名かもしれない。未完ということもあるが、小説としてはそれほど面白いものでもないからだ。あらすじだけを言うと身も蓋もない。つてを頼りに仕事を求め東京から大阪にやってきた(というよりも都落ちというべきか)夫婦が、結婚当初の熱狂が醒めると互いに相手に飽きてしまい、妻のほうが東京が恋しくなって帰ってしまうという小説だ(正確にはそこで小説は中断している)。そういうわけで描かれる大阪は、新世界やらジャンジャン横町やらと見事に観光地としての大阪に終始しており、サラリーマンと専業主婦のふたりが住む天神ノ森(天下茶屋、とも書かれる)の風景はおざりにしか描かれず、ひどく希薄な書き割りめいた印象しか残さない。

夫婦が住んでいる天神ノ森はかならずしも貧しい地域というわけではないが、小説ではそのあたりが曖昧になっている。

 同じような家が、路地の両側に、並んでいる。どっちの家並みも、屋根つづき。火事になったらあぶない家の構えだが、ここは、戦災にものがれている。
 はじめは、東京風な、貧しい長屋の感じに、受取っていたが、来てみると、如何にも、大阪らしい、長屋建築である。
 どの家にも、ヒバの垣根があり、背のひくい、石門がある。二階には、物干しがあり、今日は天気がいいので、洗濯物や、布団が、どの家にも干してあった。
 路地の出口の、吉田さんの壁に、円満階という、板の看板が出してあった。
 両側合わせて、十二軒の、長屋の住人の表札が、一目で判るように、出してあるのだ。一番下の隅に、岡本初之輔の文字が見える。
 この路地のなかは、昼間は、森閑としていた。鈴をつけた猫が、路地のなかを、ゆっくり歩いている。

 林芙美子のこの小説からふたりが住んでいた天神ノ森についての数少ない記述がこの部分である。むろん新聞小説という制約もあるのだろうが、それにしても物語の舞台は「大阪」であって、天神ノ森でも岸里でもない。成瀬己喜男の映画で強い印象を残す「路地」の光景はいわば映画のオリジナルである。いや、おそらくは林芙美子にとっての小説はそのようなものでしかなったということだろう。この小説のなかで「大阪」は東京ではないどこかの記号にすぎない。
だが映像は良くも悪くも背景を必要とする。どのような服を着て、どのような場所に住んで、どのような振る舞いを身につけているのか、そうした描写は避けることができない(主人公たちの顔つきが、あまりに場違いに美男美女なのは、まあ仕方ない)。
成瀬の映画では主人公たちの住む家は、その向かいに連なっている大阪の(こう言ってよければ)庶民たちの住む棟と比べると、同じ長屋とはいえ一段高級なものとして描かれている。木戸と小さな庭のついた、標準語を喋る主人公たちの家とは異なり、近所に住むいくらか奇妙な大阪弁を操る人びとの家は、いまでも大阪のあちこちで見ることができる道路に玄関が直接面した細長い長屋である。おそらくは昭和初期に建てられた、当時としてはいくらかハイカラだったはずの長屋だ。ただ戦争を経過し、すでに10年かそれ以上の月日が流れていたからには、それらの家々がいささかみすぼらしく感じられるようにもなっていたはずだ。そうであれば、かつての若夫婦の子供たちも成長し、アロハのつもり、としか言いようのない開襟シャツを着て、ドッジ・ラインによる緊縮財政のあおりを受け、職に就けないまま無為をかこつ若者に成長している。
大阪弁を操る者たちは、おそらくは大学と(ひょっとすると高等)女学校を出たインテリの主人公たちとは違って、せいぜいが前期中等教育を終えただけであろうことが会話のなかで示される。映画ではこのふたつの「人種」が、標準語と大阪弁、洋服と和服、あるいは仕立てのよい洋服とサイズの合わないシャツ、さらには庭のある家とない家というかたちでふたつの世界の混交がはっきりと描かれる(だが、天神ノ森では一貫して洋服だった原節子は東京では和服に着替えることは付け加えておく必要があるだろう。大根をもって知られた原節子だが大阪と東京では表情を変えている)。

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ところで、その長屋に住んでいた年配の人びとは、いったいどの方言を話していたのだろうか。どこで生まれこの長屋に住み着くことになったのだろう。林芙美子はじぶんがそうであったように、多くの人も放浪の末にこの地にたどり着いたかもしれない、大阪弁ではない別の言葉を話す人びとだったかもしれない、そういう想像力を持っていただろうか。あるいは彼女にとってそれは後に残してゆく過去の一部でしかなかったのだろうか。