everybody needs somebody ?

引っ越しの準備をしないといけないのだが、ついつい南大阪の郊外型の本屋で目にしたので買ってしまう。

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

以前、これはまったくなんで買ったのか思い出せないのだが、前著を読んで非常に感心したので覚えていたのだ。
統合失調症あるいは精神分裂病 精神病学の虚実 (講談社選書メチエ)

統合失調症あるいは精神分裂病 精神病学の虚実 (講談社選書メチエ)

そのときにも書いたが、前著は帯が非常によくなかった。一般的にはまあそうでもないのかもしれないが、ぼく個人としては養老なんとかという人は、思いつきの垂れ流しを書く有害な人だと考えているので、彼の推薦はぼくのように考えている人を遠ざけるだろうと、そう思ったのだった(ちなみにこういうタイプのひとが持つべきモラルとしては社会のアウトサイダーに断固としてとどまり続けるというものではなかろうか)。で、今回も帯がおかしい。帯だけ読むとなにか脳科学の(いささか怪しい)応用本に思えてしまうのだけれど、そんなことはない。わらわらと多くのことが書かれているが、個人的に興味深かったのは、戦争と精神医学の関係という観点から精神医学を見直すとなかなか面白そうなことがでてきそうだ、という点。たとえばおわりのほうにちらりと出てくるが、

頭部戦傷患者を含む戦争神経症患者を収容するため1943年に設立された傷痍軍人療養所の後身である国立精神療養所で、1980年頃、私が見聞した小さな光景

の話。つまり

傷痍軍人の医療費用給付が他の健康保険等の患者に比べて一段安いということ

なかんづく

福祉事務所が出す医療保護費よりも安い

というような話。しかも「その背景をなす思想」が

軍人の本分を全うすることなく、このような身になりながら、お国が一生面倒を見てくれるのを感謝せよ

というようなものであったというようなこと。さらにはひるがえって

日本の国立精神病院の多くが旧軍病院を引き継いだものであることが、この国の戦後精神医療の形が大きく歪んでしまったことに責任はないのだろうか?

というような問いかけは、調査と検証を必要とするにせよ検討に値する問題であるようにも思う。
そもそもアメリカにおける精神医学の相対的に高い地位がPTSDをはじめとした戦場で発生するさまざまな精神疾患への対処にさいして、一定の有効性を持ちえたことにその根拠があるのではないかとの説が一般に流布していたことの指摘から始まるこの書物後半の一連の記述は、それが前著を読むまで知らなかった精神科救急病院という存在とそのテクニックに一定以上の対応関係があることなどは、ぼくのようなものにとっても他人事ではすまされない内容となっている。
というのも著者が書くように、戦争と日常がシームレスであるならば、職場のメンタルケアなどを全く別の観点から見てみる必要を示唆するからだ。もし成果主義が、巷間言われているようにこれまで以上に導入されるようになれば、そして(正規の)ホワイトカラーの仕事が、裁量労働に適したものであるとするならば、それはいままで主として労働時間の管理によって間接的に行われていた労働者の健康管理の手法を、なんらかのかたちでより直接的な管理に代えてゆかねばならないことを意味している(と考えているのだが間違っているかな)。だいたいあれを導入した全国の大学では、一週間とか一ヶ月とかまとめて勤務時間を自分自身で記入して報告することになっている。おそらくは週なり、月なりの労働時間が一定水準になったところで専門家(産業医)の診断を仰「がせる」ことになるのであろう。ただ問題はこうした過労は多くの場合、いわゆる精神的な問題を引き起こすということであり、どの程度その前さばき的なチェックが有効なのだろうか、どうすれば有効になるのか、というような点が気になっていた。
この書物を読むと、解答はなんとも単純かつ当たり前のもので同僚や上司が、(おそらくこれまでよりもいくらか余分に意識的に)なるべく早い段階で適切な介入をするということでしかないだろう。つまり、おそらくは課とかその下のレベルの人間集団のマネジメントに直接、その健康管理というよりも、健康介入とかいうようなしくみを取り入れていくとふうに発想しないとあかんのかな、という思う。

そこで何をするか? 励ますこと、それから休息を取らせること、一息入れさせて温かい食事を用意すること・・・/ さらに言えば、そのような説得・示唆が先頭組織の中に組み込まれていることが望ましいという。つまり、戦闘中につぶれてしまう兵士に対して、「お前、大丈夫だよ。病気じゃないよ。一休みすれば回復してまた戦えるよ」というようなことを言ってあげるような行為が、先頭組織の中に編み込まれているといいのだが、という意見もあった。なぜそう言えるかというと、前線でそういったことが十分にできなくてそのまま放置された犠牲者たちは、励ましや急速を得られた人びとに比べて、より難治性の精神的困難に陥ったということがあるからだ。

生の権力とか言っているおれがいうのも変なのだが、大学のような(世知辛くなったとはいえ)のんびりしたところとはまだしも、もうすこし「前線」では、今日明日に(あるいは昨日に)必要になる(だった)話なのではないか。

ちなみに心理テストであらかじめ病気になりにくそうな奴を選抜するという、なにか昨今の就職活動とダブるような実験の結果は、要するにまったくの無意味であったそうだ。>企業の人

著者はこうした医療(戦陣精神医学)をある種の兵站部門として見ているわけであるが、であれば、メンタル・ケアなりヘルスなりは、文字通りに人的資本の管理という兵站そのものの話になる。そのうえで著者は

やたらと精神科の診断名を下すことが、早期の介入で速やかに原隊復帰させるという、軍医たちの創意工夫をしばしば阻んできたという所見は、今日の日本の労働戦士たちへのメンタルケアと称するものに、再構築を迫るように私には思える。限界を超えればどんな丈夫な人でもブレーク・ダウンする。そのなかに自殺という選択をせざるを得ないところまで、追い込まれる人も当然出てくる。できもしない自殺予防に大騒ぎするより、超限界労働をやめさせろ。

と述べる。


これは大変に微妙な話であり、倒錯した話であるようにも思われるのだが(というのも「立ち直った」兵士は一刻も早く原隊復帰させられるし、また兵士もそれを望む)、しかしいまのところ労働と社会は繋がっており、まずひとは生きてゆかなければならない、あるていどは(ささやかであれ)自尊心と希望とを感じながら(つまり他人にいくらか必要とされているということを願いながら)生きていかないとえらくしんどいといのであれば、人事=management of human resourcesというのは、そういうことを考えざるをえないのではないか。



ただそれは一方では

私は、同様の労働という戦線で疲弊しきって私の前に現れた人びとに、抗うつ剤を処方はする。睡眠薬の処方もする。しかしながら「あなたはうつ病ですよ。うつ病を克服した人の本を読みなさいとは滅多にいわない。・・・

という実践に繋がるものであるのは、この前線が社会そのものであり後方というものが(少なくとも今は)存在しないか、あるいはきわめて分かちがたいものであるだけに、そして前線の兵士は殺し合いをしているわけではなく、文字通りの社会人であるだけに、たとえそれが学校であるにせよ、たとえばココロノケアであるとか、イヤシとかであるよりは、「社会」とか「社会化」とか「社会性の獲得」とか、連帯でもよかろうが、そうした言語でこれまで語られてきたし、また語るべきものとして、あらためてそれが求められているということであるような気もするのだ。

ただ、いぜんよりは幾分か意識的に、つまりは人工的ななにものかとして「構築」せんとまずい状況にわれわれは追いやられてしまった、という気がひじょうにする。その意味では臨床家がこれほど臨床の言語に気を遣っているのに、非臨床家が、自堕落に臨床の言葉を用いるのはいくらなんでも「倒錯」が過ぎるのではないか。


とはいえ、人的資本論というのはどこか、後ろ向きな感じがするのは否めず、そもそも論を始めるならば、ともかくマスコミ(とくにテレビ)のニュースと称するワイドショーには、一刻も早く口をつぐんで欲しいのだが、しかし彼ら(彼女ら)にしてからがあの亢奮ぶりを見るに、自分の攻撃性をコントロールできず、不安を攻撃で紛らわせている一種の病人と考えたほうがよいのであれば、おのずと止まることはないだろうから、それを前提に、できることをやって行かねばならないのだろうなあ。

なんとなくアラはあるのだろうけれど、やはりこういう本はアラがあるほうが面白いし、考えさせる。ここで書いたもののほかにもいろいろ示唆するものは多い。

ちなみに帯の惹句は「中枢実行系は「戦争脳」?」とあって、脳の簡単な機能図のイラストがついている。まあでもこのほうがきっと売れるんでしょう。