リベリラリズムその他

Lockeにもしもリベラリズムを見るのであれば、それがとても理解しにくいものだということはわかる。彼が批判しようとしているものと一見、同じ道具立てで逆さまの結果を導き出そうとしているからだ(バリバールがLocke好きというのもわからないではない)。統治思想gouvernementaliteとその批判としてのリベラリズムというフーコーの図式はおそらくそういう微妙な批判作業の仕分けをしてからでないとよくわからないのではないか。

たとえバリバールが、そしてアルチュセール自身が否定しようと、フーコーの後年の作業は、アルチュセールがやろうとしたイデオロギー装置についての分析作業をもっとも誠実に理解して前進させようとしたとしか思えないのだな。奇妙なことかもしれないが。

ただフーコーが見ようとしたリベラリズムなるものの可能性がいまひとつよく分からなかったのだが、なんとなく分かるような気がし始めている。つまりそれはある意味で敵の姿をしている、のではないか。アルチュセール好みの逆説ではないか。
それはともかく、Lockeの関連年表を作って眺めていると、ため息がでる。まあそういうものなのだろう。

いやつまり、戦後というものにたいする、王政復古の時代が始まりつつあるような気がしており、それは歴史的な視点から見れば短い物になるだろうが(反動というのは自分自身にバネがないのでやはり長続きはしない)、それでもしかし、一人の人間の人生の過半をカバーする程度には長くなるかもしれないのだなあ、とそう思ってのことなのだが。時間の進み具合は加速しているから、さっさと終わってくれると個人的には有難いが、まああんましさっさと終わらない方が、この国の歴史にとっては意味があるかもしれない。