そういえば

学生に取ったアンケートのなかに、この大学はやたらとアンケートをとりますが取りすぎだと思います、という至極真っ当な意見があった。なるほど、そうかもしれん。たしかにこっちにしてみればひとつの授業で一回二回とるだけだが、受ける側からすると、やたらと書かされているわりには、意見がどの程度反映されているのかが分からないし、文句のひとつも言ってみたくもなるというもの。向こうの立場になってみると、いいかげん、投げやりな気持ちになるよな。たしかに。

まあある意味ちかごろの改革がらみで増えているペーパーも大部分そういうようなものだったりするかもしれん。普段文句言ってるやつが同じようなことやってりゃ世話ないよな。

なんだかんだで、社会というのか、マネジメントというのか、たくさんの人がいると、うまくやっていくのはむずかしい。(うまくやろうとすると。)

採点が終わって、いよいよ引っ越しが本格化。トラックが出入りし、色んなもの音があちこちから聞こえる。みんな落ち着かなくなっている。

ひたすら届いたCDを聞く。落ち着かない気持ちがすこし和らぐ。

Becoming a Cliche (Hk)

Becoming a Cliche (Hk)


どうも直感的に言うと自治という要素が求められているにもかかわらず、それを減少させてしまっているのではないか。とくにホワイトカラーの経験がないひとたちは、統治の単位を小さくする方向で考えないとまずいのではないだろうか。どうも逆目、逆目に張ってきているのだが。人間はひとりではなく、顔を見ながら、何人かで仕事をしたほうがいいような気がするのは、古い世代に属するからだろうか。そういう小さな世界でしか生きてこなかったからだろうか。大きなメディアへの不信というのは、その辺から来ているように思う。

双方向のメディアが新しいと喧伝されている(いた)が、顔が見えないかぎりそれは縁遠いものに思える。この場合、顔というのも比喩的なものなのだが。顔というよりは固有名というべきだろうか。

一方で男の子だからスペック表のようなものも大好きで、ついついPS3が欲しくなったりもするのだが、人間にそれを当てはめることに皮膚感覚的な嫌悪感がある。ついそういう人とは縁を切りたくなるし、できるかぎりとれる距離はとっておいて、違う世界で生きてゆきたい。年を取って少しはそういうことが昔よりも上手にできるようになっただろうか。その点、たしかに子供の頃の達観が戻ってきたような気もする。つまり死んだあとのことは考えてもしょうがない、ということなのだけれど。

世俗性? 地上の?

これはしかしひょっとすると文章ということとは対立するものなのかもしれない。

ただしこれは文章であって、そのかぎりで。

むろん仕事上のつきあいというのは、そういうところがなきしもあらずなのだが、どうも、それだけでやってはいけないような印象もある。けどまあ基本的にあまり一般的ではない働き方をしているから、社会の別の場所でもそうなのかどうか、よくわからない。

顔の見えない人と仕事をすることはどうにもできない。そのへんは動物的なのかもしれない。

明日は外の仕事。

いや、今日は、たまたま、ひとつの書類の提出に大の男がふたり連れだって行った、というただそれだけのことなのだけれど。以前はそういうことはもう少しあったのだけれど、ほんとうに久しぶりだった。そしてたぶん、もうこういうことはなくなってしまうのだ。ああ、そういうことか。