すい

すいなよう。とよく祖母はそう言っていた。祖母ほどではないが、母や叔母からもときおりこの言葉が聞かれるときがあった。あったというのは、いまはもうほとんどこの言葉を耳にすることはないからだ。富岡多恵子西鶴について書いた『西鶴の感情』のなかで好色一代男にふれながら、この「すい」という言葉についていくらか解釈を加えている。
富岡多恵子は、九鬼周造が「いき」と「すい」を「両者は結局その根底においては同一的意味内容をもっている」としたことに違和感を表明している。「すい」は、基本的にはそれが「男女間の事柄にかかわる」、しかも「おおっぴらには」できない恋愛、「事情(わけ)のある男女」にたいする配慮といったものであった。たしかに九鬼の「いき」も遊里、つまり人身そのものが売買される売買春の世界において働くものであるというかぎりで、そこに一定の共通性は認められる。(ようするに単なる役務の賃貸借ではないということだ。)
ただし「九鬼の「いき」」は究極的には「苦界で働く「女」」にたいする評価をその出発点に置いているのではないかと富岡はいう。それにたいし、もっぱら上方で使われていた「すい」と言う言葉は、(いくつかの例外は認めつつも)その中心がむしろ「「男」の側、即ち「女」を買う側の「すい」」にあると彼女はいう。だから「すい」は「九鬼のいう「苦界」の「女」の態度や意識の理想形の固定化」ではないのだと。
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さらに富岡は西鶴の「すい」は方向性を失い「世間」から逸脱した放蕩であると続け、しかもそれがナンセンスな「笑い」あるいはおかしみへとつながるものであるとも指摘するのだが、もしそれが「すい」の要素であれば、あるいは九鬼の「いき」とのつながりもかえって出てくるかもしれない。
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ぼくが生まれる10年ほど前にはすでに売春防止法は実施され、港町ではあったから小さいながらに存在していた遊郭も、すでに建物を残すだけになっていた。勝手口を出て日のささない路地を抜けて少し歩けば、なにか普通とは違う西洋風の、子供にはずいぶんと立派に見えた建物があったが、それがかつての遊郭だと知ったのはいつのことだったのか。あるいは父が学生の頃に勉強部屋としていた小さな三畳間の窓から見える欄干が、遊郭の名残であると教えられたのはあるいはいつのことだったろうか。帰省の折にふと思い出し、かつてのその遊郭を探しても、もう見つけることはできなかった。
赤線がなくなったのは、父がまだ10代の頃であれば両親や叔母たちの世代はすでにこうした世界との直接のつながりはない。あのおばんは大阪の遊郭で働いていたと、あっけらかんと何事もなく語られる程度には、その世界は近くもあればすでに過去の話にもなっていた。あれは曾祖父の何回忌であったろうか、いまとなってはそれが曾祖父の話であったのか、あるいは祖父の話であったのかも忘れてしまったが、何かのひょうしに遊郭の話になった。あのひとは遊郭の女郎さんらのために掛けおうたってな、小学校の校庭を借りて運動会を開いたったことがあったんさ。女郎さんらもえらい喜んでな・・・。
あれは誰の話であっただろうか。そこにいる語り手以外の誰もがはじめて聞く話として聞いていた光景はかすかに記憶に残っている。
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祖母が「すいなよう」「マア、すいなんなあ」と感嘆しているようでもあれば、嬉しさを表現しているような、なんとも表現しがたい独特の言い方で、そう語っていたとき、富岡が書いたような、色恋の世界へとつながっていくような意味合いは、もしあったとしてもそれを感じるには、いくらなんでも聞いているぼくは子供に過ぎた。いずれにせよ逆立ちしても世之介にはなれそうもない。あるいはぼくが知ることもなかった、祖母と祖母のその友たちとの会話のなかでは、まだ子供であった富岡多恵子が大人たちの会話のなかで耳にしたような「すい」はまだ生きていたのだろうか。