帝塚山

この天下茶屋から東に坂道を登っていくと、住宅街が広がっている。戦前の東京周辺の宅地開発が同時に文教地区の形成を目指していたように、松虫から帝塚山にかけてもかつては大学を含め、とくに私学が多く存在していた。ぼくがはじめて働いた公立の学校ももともとはこの帝塚山の万台池のほとりにあった。向かいにはお嬢様学校として有名な私学の女子大もあり、そこには詩人の小野十三郎が教えに来ていた。公立学校の学生であったある作家は当時、小野十三郎に自分の詩を見てもらうためにその向かいの学校まで足しげく通っていた。
現在もこのあたりはまだ高級住宅地ということになっている。とはいえ大阪は高級住宅地を維持するには決定的に緑が少なく、街並みの高級感を保つことに失敗している町が多い。もともとの埋め立て地だけではなく、高台にあったこうした町ですら何カ所かに点在する神社にかすかに緑が残っているが、それを除くとぎっしりと細分化された土地が並んでしまっている(そういう意味では大阪市内においてジェントリフィケーションを心配することはいくらか倒錯している感じすらする)。
そうしたある種の地盤沈下はこの高級住宅地にもいくらか停滞の雰囲気が漂わせることになる。しかもある日この街から若い女性たちは突然に消えてしまう。公立の学校も、その向かいにあった私立のお嬢様学校も、相次いでこの地を離れ落下傘のように大阪の郊外に新天地を求めた(公立の学校は廃止され、私立の学校は共学化した。大阪の人たちが口先ほどには自分たちの住んでいる地域を愛しているとはとても思えないのはこういうところにも感じる。)
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こうして大阪南部の開発のために移転した公立学校もはやばやと閉校する。****女子大学がこの街にきていただけると聞きまして、わたくし自身大学などというところには通ったこともなく、どうやってお迎えすればよいのかと、わたくしどもに何ができるであろうかと、この町のみなさんとたいへんに頭を悩ませたことを覚えております、と学校を閉めるにあたり、その校舎で行なった最後の卒業式に招かれた当時の町内会長だった男性が何ひとつ抗議めいた言葉を挟まずに語るその語り口からは、しかし何か承服しがたいという感情がそのままにかたちとなって体に突き刺さってくる。こうしてまた町はその姿を突然に変えられてしまう。が、それはしかし別の話だ。
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この高級住宅地も80年代のどこかで時間が止まってしまってる。ガイドブックに取り上げられるようなケーキ屋や喫茶店、レストランやブティックなどがあるけれど、資本主義が本来持っているはずのある種の活力はもうそこからは奪われてしまっている。昼食を食べに入った上品そうなレストランも、きちんとしたその仕事とは裏腹にやはり過去の空気を漂わせていた。
昔はこういう店がいいとわたしも思っていたわと、お手洗いから戻ってきたmayakovがそう言ったことがある。こういう店って? こういうアール・デコ風の内装。トイレもそうだったし、ほら、あそことか、あそことか。ぼくらが中学生だったか高校生であったか、日本がまだ豊かになろうとしていて、まだなりきれていなかったころに解釈され変形された西洋がそこにはある。バブルを経て良くも悪くも等身大の西洋を受容できるようになった90年代以降の文化とは質的に違うものがまだここには凍結され、そっくりそのまま残っている。たとえば大阪でもキタや神戸、そして東京であれば、建築物としては残ってはいても、その存在に気がつくことはあまりない。周囲に存在するいっそう現代風の建物が、時を経て相対的に目立たないものになったそうしたビルを隠してしまうからだ。
だがここには周囲の風景もそのままにかつての華やかさがそのまま風化したまま保存されてしまっている。
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けれどひとりで歩くときは、この高台に向かって坂を登るのではなく、海に向かって平坦な道を歩くことが多い。