temjinusさんへのリプライ

もう十五年以上も前、学生の義務として初めて論文らしきものを書こうとし、そして論文というものがよく分からないまま(そしていまでもそれが何かよく分かっていないのですが)、終わりに近づくにつれて、あることに気がつきました。つまり自分がここにで述べていることに、もし何かの意味があるとすると、ここで論文として述べているそのやりかたはほとんど無意味であると。つまり内容と形式とがまったく矛盾しつつあることにーもっともいっそう未整理なかたちではありましたがー気がつきそうになったのだという気がします。その論文はまさにAlthusserが考えたことを解説しようとしたものではあったのですが、締め切りの数ヶ月以上前に内容的には筆が止まったまま、その当時は息が切れたのだと思っていましたが、いまから思うと内的な矛盾というか困難のために、いわば実質的には未完のまま、本来であればまったくはじめから書き直すべきまま、とりあえず形式的に体裁を整えて提出してしまったような気がします。
むろん大方の人は15年前の文章を目の前に引き出されれば、舌をかんで死にたくなるでしょうが、ぼくも例外なくその文章についてはいまはもう見たくもないという気分でいます。ただ、それでもこうした間違った前提で書き進めてしまった文章であるにもかかわらず、もう少しその間違った道のりを前進することができていれば、いくらかはたしょうはましであったのに、という気持ちもあります。当時、もうすぐ見えそうになっていながら、ある種のおそらくは蛮勇が不足していたために取り逃がしていた問題は、天神茄子さんが日記で書いていたような問題であったと、いまではそう思います。Althusserが書こうとし、そしてぼくが言い直そうとしていたものは、はたして「哲学」であったのか、という問題です。じつは皮肉もAlthusser自信が、こうした「哲学とは何か」といういわば不毛ともいえる問題を、みずからの「晩年」にやはり自分の問題としていたにもかかわらず、じぶんが突き当たろうとしていた問題が、まさにその問題であったことに気がついていなかったことは、やはり若さ故ではない、非力を物語っているように思います。
非常に下らぬことをいえば、philosopheフィロゾーフというフランス語は、いったい何を指しているのか、というフランス固有の問題とも関わると思います。それはその意味では、むしろ歴史的、ないしは社会学的な問題であるといまにしてはそう思いますが、つまりはルソーは(ヴォルテールは)フィロゾーフだと言うとき、これを「哲学」と訳してよいのか、というそれ自体としてはbanalな問題と関わっているといまのところはそう思います。(それを教えることはできない以上、学校の「哲学」ではありえませんね。)
少し乱暴にまとめると言語の用法と、その機能を対象とすることが、現代的な意味での「哲学」であるとすると(そしてぼくは「哲学」をこれに限定してよいと思っていますが)、おそらくAlthusserが考えていたこと(あるいはそう信じていたこと)は、やはり哲学とは異なるものだろうと思います。ではフィロゾーフたるルソーはなんと呼べばよいのでしょうか。あるいは現在であればどう呼ばれるべきであるのでしょうか。大学の外で、ほぼそれとは無関係に、まるで親をもたずに生まれた子のように成長したかのように自分の自伝を書いたルソーは、あるいはジャーナリストと呼べばよいのでしょうか。知識人と呼べばよいのでしょうか。あるいはもうしばらく後のことになりますが、トラシーやカバニスが時の皇帝にそう呼ばれたように、(いささか皮肉なことになりますが)イデオローグと呼ばれるべきでしょうか。あるいは左翼と呼ばれるべきなのでしょうか。評論家でしょうか。有名人でしょうか。メディア・スターでしょうか。
当時のぼくにはきわめて抽象的に見えた(そのかぎりで哲学と呼ばれることに違和感は感じつつもあらためてそれを徹底的に考えてみることができなかった)彼の「理論」ないしは「主張」は、じつはAlthusserが別のところで、「世界観」と呼ぼうとしていた何かと、別のものではなかったのではないかということを、(たしかに一瞬はそう考えた記憶もあるのですが)きちんと検討してみるべきではあったと思っています。
おそらくそれはあるときには「左翼」というものと結びついており(そしてそのことが反左翼の人びとがいまだに、「反」左翼として、その亡霊にすがりついてみずからの言論を反動的に形成してしまうこととも関係があるのでしょう)、知識人とも結びついていますが、究極的には「メディア」というものにおそらくはもっとも強く結びついた何物かであろうと思います。そのかぎりで、それは、パリという消費都市、旧体制の支配層も住む19世紀までは世界の中心であったその文化都市に、固有の現象として生まれ、伝播したものであろうと思うのです。
おそらくそう考えてみるとAlthusserが、フランスの高等教育制度のいわば内側でありかつ周縁であるような場所にいたひと(彼がやっていたのは、エコール・ノルマルの、いまであれば、いわゆるチューターと呼ばれるような仕事でしょう)であるのは、やはり偶然ではないようにも思えます。
そしておそらくは大学における「左翼」が往々にして目指すものが、なによりも、メディアというものであることも、そして時に悲喜劇的なことに、述べられる理念が、その世界に到達する手段となるという一見すると反転した、しかしよく考えると、やはりある種の必然としてそれらが緊密に切り離しがたく結びついていることも、いまでは無縁のこととも思えません(いわばそれは一種の副作用なのでしょう。だからこそそれはコンテンツとしての文学と結びつく)。
Althusserがテクストは、そこに書かれている以上のことを語ってしまうと、ざっくばらんに言えば、おおかたそのようなことを言っているのですが、もしこの解釈が正しいとすれば、不可避的に問題はそのテクストが解釈される場所に、移されてしまいます。そのことをまるでAlthusserはそれを読む読み手の頭のなかで起こる出来事であるかのように書いてしまっていますが、けれどそれは彼自身、荒っぽい言葉を使えば「外」の世界に差し向けるために、ある、流通している解釈に意義を唱えるためにそのようにそうした「解釈」を差し向けたのであれば、やはり不可避的にそれは「外」の世界と結びつけて考えるべきものであったのであって、おそらくはそれは「哲学」とよばれるべき何かではなかったのだろうと思います。
たぶんぼくは曖昧に「理論」と呼んでいたように思います。しかしそれは「理論」なのだろうか。法学者と呼ぶことのできるユマニストは多いけれど、ユマニストを哲学者と呼ぶことはいささか躊躇われます。だからといって「理論家」とよぶことはいくらか奇妙な気がします。まだ中途半端なのです。ストア派は哲学者と呼びうるのでしょうか。少なくともこの狭い定義には収まりそうもありません。むしろ「政治」家、とりわけ失意のもとにある政治家でしょう。Machiavelliは? 失意のもとにあった行政官でしょう。そのかぎりでみずからの行いに沈潜せざるを得なかった、にもかかわらず純粋に瞑想にとどまるでなく、無力な政治家でありつづけ、無力なしかし行政官でありつづけることを選ばざるを得なかったひとたちでしょう。おそらくこのことを考えるべきだったのです。
こうしたことのすべてはしかし、le cas d'Althusserと言うべきなのでしょうか。彼はこのことをテクストのなかで、いくらか内在的に、しかしそれしか選びようがないために誤解を与えがちな形式で、考えようとしていたような気はしているのですが・・・。
そのいみでは、いまとなってみると、「哲学」的な外観を与えようとしたことは、ひょっとすると、それがAlthusserの間違いであったかもしれませんし、すくなくともぼくの当時の間違いは、そこに「理論的に見える外観」を付与しようとしたことの間違いであったように思いますが、それはまた別の話であり、この年になってみると、置かれた状況の制約と呼ぶほかはないような気もします・・・。
まとまりませんね。