懐疑

しかし正直に言うと、みずから手にした力を行使し労働することに生き甲斐を感じる農民の言葉を、無下に否定しきることには躊躇を覚えることもたしかだ。おそらく現場を子細に見ると、一般的な文革のありようとはまた別の現実も見つかるのかもしれない。
だが、そうした肯定すべき何かがもしあったとしても、結局それはエピソードに止まるものでしかないのではないだろうか。全体としては、やはり「失敗」であったといわざるをえず、またその失敗は必然的なものであったとしかいいようがないという、「実感」を裏切る歴史の(とりあえずの、かもしれないが)「事実」をいまのところは優先せざる得ない。
あるいは肯定すべき要素(conatusとでも呼ぶべきだろうか?)はどのようなシステムにおいても存在しうると、いうふうに考えるべきだろうか。だとすると善とは何なのかよくわからなくなってしまう。
イシグロを読んで考えたことが、ここでもまたつきまとう。