昨日書こうと思ってどうにもまとまらなかったこと。

茶店にはいると、ついつい新聞を読んでしまう。南大阪にはCafeというものはなく、スポーツ新聞をメインに置いてある喫茶店だ。混雑するお昼時は、みんな取り合って読んでいる。どうしても年配のひとがメイン。なんとなく「識字率の高さ」ということをふと考える。さて、このままスポ新を読む人の年齢層が着実に上がっていったとき、スポ新はどうなるのだろうか。
少しずつ減っていく旧来の客ではなく、新たに参入する若い層、ということだが、もちろん少子化の影響は受けるのだろうが、そのときにあえて活字メディアを娯楽として選択する若いスポーツに関心のある人はどのような記事を望むのだろう。つまり教養の程度はいまよりも高くなるのだろうか、変化しないのだろうか。

そもそもスポ新は、もっとエロの方向に向かうのだろうか。新聞そのものの形態が変わるのだろうか。

ついでに小泉の参拝を報じる新聞を眺める。奇妙に遠い世界の出来事に見えてしまう。いや「心の問題」であれば、遠いのも当然なのだが、それにしても空回りしているという印象がぬぐいがたい。なにかが空回りしている、というのはそれを報じるメディアが、ということなのだが。

ぼんやりテレビを見ても、相変わらずインタビューを中心にああいう意見もある、こういう意見もある、という言いっぱなしだけが印象に残り、時間の無駄だという感想を押しとどめることはできない。

多少気にはなるので、昨日は少しだけ古館伊知郎のニュースを見た。少しだけというのは、時代がかったというか、深刻ぶった表面上の口調にもかかわらず、ますますひどくなってゆく、その言葉の内実のなさに耐えられずに途中で切ってしまったからなのだが、新聞の空回りしている感じとどこかでつながっているような気もする。

小泉という人の問題なのだろうか。確かに彼に何を言っても無駄なことは確かだ。子供っぽい意地や見栄のようなものを最優先した、ということしか伝わってこない以上、説得しても無駄だろうと思う。(あまり好きではないが)アベJrやなんかと比べてもとりわけそうだ。それでいいのか、と思うが、彼を選んでしまった以上、そうであればこうなることはどこかの段階でわかっていたことだ。たとえば後藤田に耳元でささやかれて断念した大勲位氏とは何かが決定的に違うのだ。
彼が「ココロの問題」というとき、そのココロはもう、昔の「心派」のいう心とは違ってしまっている。

彼にエモーショナルに同一化している人が、いるとすれば、たしかに満足したかもしれないが、そんなひとが社会的に意味があるほど多いとも思えない。

参拝を推し進める側はもちろんこれは政治の問題ではないのである、とすることに一定のメリットはあるので、そのような方向付けが成功した可能性もないではない。が、そういう解釈もまだ腑に落ちない。成功したとすれば、どのような意味でそれが成功したのか、その成功がどういう意味を持っているのか、が腑に落ちないからだろう。その成功に何の意味があるのかがまったくわからない。

いや、そういう操作の結果であれば、まだ安心できる。

そもそも政治問題化しなかったわけではない。どのみちここでは狭い意味での政治(政局とかそれに近い意味)を考えているわけではない。

8月15日を選んで、しかも政治家として公約してしまった以上、私人の宗教行事であると言い抜けることは、靖国神社というものの成り立ち、そしてこの問題をややこしくしたA級戦犯の問題を考えるといっそう、相当に面倒くさい屁理屈をこねないと難しい。おそらく内輪にしか通用しないものになろうが、なによりも、小泉はそういう面倒くさいことをやってはいない。

ネットで見るような右っぽいひとたちのなかにはそうとう面倒くさい理屈をこねている人もいるのだろうが、小泉にはそういう丁寧さはない。丁寧さなのか、別の理由かはともかく。

ココロなのだよ、ココロ。何だそれは、という疑問ではなく、何で?という疑問が湧く。

だからこそ、新聞は批判的な意見を載せたりもするのだろうが、たぶん違和感をぬぐえないのは、古館ほどひどくはないにせよ、それを読んだとしても、もう死んでしまった意見しか載っていないのではないか、という徒労感を感じるからだろうし、もっというと小泉と何かを一緒になってやってきた感じがするのに、いまさら、という思いがあるからだろう。亀田問題とTBSとまでは言うつもりはないが(まだ)。似ているような気もするが、まだ留保しておこう。

そうだ正確に言うと、空回りしている、のではなくて、どうにも空回りしているような気がして、テレビを途中で切ってしまったように、新聞をきちんと読めなかった、という言い方が正しいなあ。

だとするとこれはむしろぼく個人の(マス)メディアにたいするある種の絶望が前提にあって、その結果なのか。読むとそこには何か意味のある言葉が書かれており、政治はまだ死んではいないのだろうか。

ときどき広告で、田原総一郎というひとをみるけれど、そのたびにいつも無惨な感じがするが、それに似ているかもしれない。なんだろう、絶望が足りないのだろうか。(そういう意味では小泉自身には絶望に近いような印象を受けることはある。)何かが成功したとして、その成功の意味がわからない。

それにしても、その小泉と田原的なのか政治部的なのか朝日的なのかメディア的なのか、その二つのカップリングが、いったいどういう意味を持っているのかがまったく腑に落ちず、その腑に落ちなさが、この靖国問題で強烈に感じられたということだろうか。

うまくまとまらないなあ。

たぶん靖国に首相が参るということの政治的な意味は、すくなくとも広い意味での政治的な帰結はある。が、そういったこととはまったく別に小泉という人の行動の原則(? 情動? もっと別の何か?)があることが気持ち悪く、こういう齟齬を可能にした状況(このあたりにメディアが絡む)がさらに気持ち悪い、ということか。で、たぶん厄介なことになるだろうという漠然とした不安もあるが、それについては直接の当事者にはならずに済むことは救いか。短期的にせよ。