さて

SOPといっしょに過ごしたのだが、今日、彼は五回にわけてうんこをした。朝に二回でけっこう大きなうんこが出たので今日は安心だと思っていたら、そのあと、ちょびっとづつ三回やった。別に下痢というのではない。ときどきこういう日がある。思うに、たくさんおむつにすると気持ち悪いので少しずつやるのではなかろうか。それ以外では、わりあいと仲良く過ごせた一日ではあった。
昨日の晩、絆創膏を替えるのに傷をまじまじとみたがやはり相当大きな傷になっていた。傷も痛そうだが、mayakovに似て肌が弱いようで、でかい絆創膏を貼っているから、おでこのかぶれが痛々しく、また本人も気になるようだ。きょうも思い出してはどうにかしてくれとぼくに訴えていた。すまん明日(もう今日か)何かしてもらえるから。

夕方からmayakovと交代。明日の準備のために巨大ショッピング・センター内スタバに行って泥縄勉強。Tocquevilleのノートを取る。そんなにガチガチに伏線を張るタイプの著作ではないから、そんなに必死でノートを取らなくてもいいようなものだが、写経はし始めると止まらなくなってしまう。どうも思考内容そのものよりも、考えるあるいは書くときの癖のようなものが気になるらしい。

こういう読み方は、しかし研究者的かといわれると、率直に言って違うといわざるを得ない。論文のスパイスにはなるが、それで論文を構築することはできない。が、ほとんどそのスパイスだけで文章を書いているから、日本料理と嘘を言いながら、何も知らない客に本格かどうかともかく、インド風カレーを出しているようなところはある(本格インドカレーとも言えないのが悲しいが)。こういうスパイスの使い方もしかし案外と伝達可能で、教えようと思えば教えることもできるのだが、たとえば大学院生に教えても無意味である。学部生あたりがちょうどいい。職業的に論文を書くわけではないからだ。職業的に論文を書かねばならない者は、そういうスパイスのことを知る前に、いろいろ知っておかねばならないことがあって、それとて、2年やそこらではとてもマスターしきれないぐらいのものではある。が、そういう基本的なことを教えることができないので、とてもではないが大学院生の指導ができるとは思えない。うまい具合にそういう経験をせずにすんでいるのは精神衛生にはよい。

そういう無責任な人間の外側からの観察にすぎないのだが、できのよい卒論と、平均的な修論を比べた場合、じつはできのよい卒論の方が体裁はともかく、少なくとも内容的に読むに足るものが多かったように思う。じつはまあそれも不思議なことでもなく、入試の難易度でいうと、最近は大学よりも大学院の方が入りやすくなっているからだ。まあすべての大学ではないのだろうが、中堅大学はそうではないだろうか。

準備があるからこれ以上長々書いてはいられないが、こういう状況の解決のためには、大学院の定員を思い切っていまの5倍かできれば10倍ぐらいにしたほうがいいんじゃないだろうか。とくに中堅以下の必ずしも研究者を養成しない大学で、だ。むろん減らすことができればそれもひとつの解決には違いないのだろうが、おそらくそれは無理だろう。受ける側からしても大学と違って二年で済むから割安感があっていいし。講座制廃止という方向性とも合致していよう。大学院という名前にふさわしくないという向きもあろうが、現状はしかし上に書いたとおり。
いまぐらいの定員が中途半端で一番よくないような気がする。5倍10倍となれば、もう、これはまったく別物であり、誤解の余地はないだろう。それでも誤解する奴がいれば、それは誤解した奴が悪い。いまのままだとちょっとグレーゾーン金利みたいで、平然と自己責任だからと言い切れない感じがする。自己責任なんだが。

と書いてたら地震があった。ごめんなさい神様。もう馬鹿なことは書きません。