卒業式

で寒風に吹きすさぶ中にいたせいか、治りかけていた風邪が治らないまま、良くも悪くもない状態で安定してしまった。自分の卒業式は中学を最後に出ていないが、職場の卒業式にはちゃんと行く。仕事だという意識もあるが、独特の華やいだ雰囲気が気に入っているのかもしれない。以前は式場には入らず、式が終わった頃を見計らって顔見知りの学生に会いに行ったものだが、近頃は式典にも出席する。これは野次馬というか、偉い人がどんな挨拶をするのかチェックするためだ。ここしばらくの偉い人たちのその演説は、これがまた趣深いと噂には聞いていたのだが、さすがにわざわざ聞きに行くこともなく月日は過ぎていたのだが、ある日ついにそれを聞いてしまったばかりに、毎回意地悪な期待とともに式に出席することになってしまったのだった。

そしてその意地悪な期待は毎回裏切られることはなく、何を言ってはいけないかというべからず集がたくさん積み上がってゆく。むかしの偉い人は、どのような式典の挨拶でも、いかに大学の置かれた環境が厳しく、そのためいかに大変かという話をし続けた。そして卒業式でも、これから卒業し、社会に向かって羽ばたくはずの人に向かってコクコーリツダイガクノー、ドクリツホージンカガーとやり始めたときの感動は、いまでも昨日のことのように思い出される。いろいろ列挙するのが好きなエライ人もいた。ある人は知事国会議員から町内会長までずらずら(感覚的には20人ぐらいの)名前を列挙して感謝の念を表明していたが、さすがにそのときは、いったいこのリストはいつ終わるのか、聞きながら途中で不安な感じになった。ここまでくると名前を出さないことに意味が発生するので、それはそれで面白い。

こういうことを知っておくとあとの謝恩会(というものがまだある)で、こっちが挨拶するときに便利で、こういう挨拶でいわれたことをネタふりにすると、労せずして笑いがとれる。我ながら悪辣なやり口というか、後出しじゃんけんもいいところだが、舞台に立つということは笑われるということなので勘弁してほしい。今回は卒業して困ったら私たち(大学の教師)を思い出してほしい、という挨拶をネタにした。むろん否定するためだ。社会に出て困って、誰かに相談しようと思ったとき、大学教師しか頭に浮かんでこないという状況にならないように、ちゃんと人と交流しましょうとやって多少受けを取ったつもりなのだが、拍手がどうもまばらだったのは本人が思っているほど受けていなかったのかもしれない。

しかし冷静に考えてみれば大学教師のほとんどは小学校に入って以来、例外もあるが大方の人は、ずっと学校にいっぱなしである。社会人になっての悩みといえばふつうは勉強以外のことだろうから、それを学校から出たことのない人に聞くというのはいかがなものかとは思う。まだしも小学校中学校なら生活指導や家庭訪問などで多様な生活のあり方もみるわけだが、大学の教師となるとそれもない。定年前なら半世紀以上学校に居続けているわけで、いくら岡目八目といっても遠すぎて碁盤の目も見えるはずがない。

と一応はこのように言えるけれど、実をいえば、いわゆる「社会人」であったところで僕ら以上にどれほど「世間」を知っているのか、あるいはつらいときに適切なアドヴァイスをくれるのか、それについてはよくわからないという気もする。おそらく世知とは別のところにつらいときに相談に載ってもらうに適切な相手、そうでない相手というのもいるような気もしないではない。が、ともあれ暫定的にであれ、上に書いたようなことが言えるのは、どうもここ最近にあったエライ人たちが「うち/そと」という対比を使うと、ひじょうに「うち」指向の人間であって(偶然かもしれないがそれらエライ人たちは、おそらくは30そこそこで就職して以来、職場を一度も変わっていない)、そのことから察するに、大学という場所、そこにある価値観は「うち」指向の人間をつくる傾向を(あるいは他の職場よりも多く)持っていることは否定できないからだ。あるいは組織一般において、終身でそこにいるということはそういう人間を作りがちなのかもしれないが、それはしかし経験が不足していて何ともいいようがない。

つまり、ここしばらくの大学「改革」にはたしかに閉口至極だが、しかしそれはあくまで大学というコップの中の話であって、そりゃそのことは社会に少なからぬ影響を与えもするだろうが、しょせんは自分の学生時代を思い出しても、やはりそれは人生のごくごく短い時期にごくごく部分的な関わりしか占めない一組織の嵐であって、ぼくにとってはことによると人生をかけるに値する問題である可能性もあるが(そうではないと祈りたい)、大学の再編や合併や独立法人化やその他その他が、卒業式に送るはなむけの言葉としてとても適切な話題であるとは思えない。にもかかわらず、まあたいしたものではないとはいえ、他人の人生の節目に、自分の立場、視点からしかものの言えない人間を、長のついた肩書きとともに壇上に送り出してしまう組織には、自分もそうなるかもしれない(長がつくことはおそらくないだろうが)という恐怖を感じないではいられない。それは現在自分の属している組織から外に出ることのできない人間になってしまうかもしれないという恐怖だ。

外部だとか、外に出るだとか、あまりロマンチックに考える必要はないと思うし、ロマンチックに考えているあいだは外にも外部にも無縁なのだろうと思う。
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もっとも拍手が少なかったことに関していうと、それは、卒業したらぼくらのことはきれいさっぱり忘れ去ってください、どんなつらいことがあっても決して思い出さないでください、という言い方をしたからかもしれない。