いまや世界(岩波)と月刊現代と産経新聞とを

国家の自縛

国家の自縛

股にかけている異能の著者。南大阪市の駅前書店では売り切れだった。京都に行ったついでに淀屋橋の地下鉄連絡道にあるブックファーストで購入。賛成できない所もあるがあいかわらず面白い。正直、面白すぎてネタになってやしないかと引っかかるほど。京都に向かう電車のなかでぱらぱら目を通すと、ハバーマスを絶賛しているのでへえ、と思いながら研究会に出ると、発表者であるD氏がやはりハバーマスにちょっとニュアンスを含ませて言及。さらにそこからイギリスへと向かう線を示唆するに至り、ちょっと腰の入った興味に。残念ながら話を持ってゆくチャンスをとり逃がす。今年卒論の学生はセネットだったり、ちょっとまじめにハバーマスを読めというふうに誰かが言っているのか。

この本を買いに行った南大阪市の本屋で、代わりに買ったのは
さようなら、私の本よ!

さようなら、私の本よ!

ことしもいろいろ話題作を読んだが、何がどう違うのかよく分からないが圧倒的に別のもの。『治療塔』から『宙返り』にかけての作品はいまひとつ心にひびかず、ちょっともうあかんのかなと思っていたら、『取り替え子』で大逆転のカウンター・パンチを食らう。(構造に支配されたものとしての)物語と、歴史および小説にとの差異について、思っても見なかった回答だった。いや要約すると思っていたような回答なのかもしれないが、最後の(語り手を変えての)センダックを使ったシーンに至るまで、見事な構築力と想像力でもって物語あるいは歴史(あるいは現実?)自身を解体しさらに再構築してしまった。しかもこの書物を語るはずの作者についても。しかもこのテーマについて大江氏が意識して書いたのではないかと思うのは続編がドン・キホーテを下敷きにしたものであるからなのだが、しかしこの二作目はいまひとつぼくにとってその役割が明確ではない。前作での強引な論理の力は、この第二作目ではあまり見られない。ドン・キホーテをこれ見よがしに使っている以上、構造がもう少しはっきりと表明されても良さそうなものだが、むしろこの第二作目ではそれは曖昧で捕まえづらいものになっている。そのわかりにくさが少しははっきりするだろうかと思いながらこの『さようなら、私の本よ!』を少しづつ読み進めるのだが、読んでいるとしかしそういう知的な関心はついつい思考の前景から退いてしまう。
チェンジリング 取り替え子

チェンジリング 取り替え子

憂い顔の童子

憂い顔の童子


そういう意味では、大塚英志はこの連作をどう扱うのだろうかという興味はある。