コンピュータが

壊れたので、修理に出しに行く。なんか心斎橋のあたりをすこしうろつくが、ちょっともう溶け込めない。アセンスできしどんをフィーチャーした新書を買って順番待ちのあいだに少し読む。なんか知り合いがテレビに出たときのような嬉し恥ずかしい感じ。

自由という服従 (光文社新書)

自由という服従 (光文社新書)


ああー、ほら、がんばれ。ああー。

ってよく考えたらきしどん、小室病かどうか心配してたけど、フィーチャーされてるやん。むしろ朋チャン病を心配せんならんやん。
(id:yeuxqui:20050113)

mayakovからの伝言。
いろんな本屋に行って、目次に赤線引くってボランティアしようか?

しかしこの本、目次にいちいちfeat. Masahico KISIとかやってもいい感じ。>著者のひと。

そのきしどんからのメール

ところで、……
……
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………………
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おしめプレーのビデオなんだけど、あれって
NHKで放送されたんだっけ?

えっ? うっ? またやっちゃいましたか、わし。ロボコン零点?
ええとやってなかったらNHKごめん。よく踏みとどまった。
木曜お待ちしております。
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ただアセンスのような本屋だと探すのが大変。新書新刊コーナーを見落としていたので、新書コーナーで探したのだが、新刊の棚からはずれると、ほとんどもうこれは見つけるのは不可能。やっぱもう新書は雑誌になったと理解すべきなんだろうなあ。書き手ってわりとどれもこれも同じだし。
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けっこうマジで書くんだが、だったら広告乗っけたらいいんじゃないか? カバーとかデザイン変えてる暇あったら、あのカバー広告にしちゃえばいいじゃん。囲みの広告が本文中に入ってるとか。あんましそのへん潔癖に避けてる理由ってもうないんじゃないかな。
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金曜は研究会。まとめの時期なので論文の構想をそれぞれ語るが、激しく疲れていたので、なんかエンドレスにしゃべりつづけていたらしい。そう指摘したのはカモ王子なので、おまえが言うか、という感じなのだが。

なんかしかし若い人は第一章はこうで、第二章はこうで、ときっちり整っていたのでびっくり。むしろ年代が上のほうが、書いてみないとわからん的な発表だった。やはりあるていど置かれた環境の厳しさが反映しているのかも知れん。

反動おやじ(っつっても同い年だが)のFはこんどFranz Rosenzweigあたりの発表をしてくれるらしい。レオ・シュトラウスあたりも絡むそうなので、面白いんじゃないかと楽しみ。
さいきんは少し事情は変わってきたのだが、なんでかしらん日本では、BuberはやるけどRosenzweigは無視というのがまかり通ってきたので(なんでかは、なんとなくうっすら想像はできるが)、その辺の事情がわかるといいなあと、途中まで読んでほったらかしたRosenzweigをもう一度引っ張り出す。このひとはマイネッケのお弟子さんなので、そっち経由で知ったのだが、むしろ本来は「贖罪の星」とかユダヤ思想方面でもっと検討されてしかるべき人であるにもかかわらず、なんとなく日本ではほったらかされてた。最近はレヴィナス経由で読んでるひとも多いようだ。ちなみに仏訳も英訳もけっこう古くからある。
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しかしなあ考えてみるとこんだけアルチュセールベンヤミンがうける国なんだから、もっと前にもてはやされててもよかったのなになあ。広松とかなんか書いてないかなあ。
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ヨーロッパの秀才というのはほんとによく訓練もされててたいしたもんだというのはFとしゃべってると痛感する。あのへんがまあ大学教育(少なくとも文学)を考えたときに、いちおう目指すべき水準なんだろうが、大学だけではいかんともしがたい。すくなくともオレなんかが物知りに見えているようではまずいわけだが、まあ物知りに見えかねない瞬間は、ある。
Fは専門としては中世〜近世の仏教思想あたりをやっているようだ。まあ専門化はどこの国でも多かれ少なかれ進んでいるにせよ、本や論文だけからはあんまし見えてこない、背景としての教養(ないしは知識)というものの差はいかんともしがたくある。まあいまは西洋近代なわけで、その点あいつらはちょっとスタート時点からちょっと得してるというのもそうなんだが。

ただ大学で教えるべき知識というものを考えるとき、官僚制的分業に基づく専門知識VS全人格的教養主義(by上山安敏)、つまりウェーバーゲオルゲという図式があるんだが、後者の側はこの国ではえらく低い水準に誤解されてしまっている。後者から出てくるのがたとえばカントロヴィッツ(エルンストのほう)の『フリードリッヒ二世』だというあたりに、その全人的教養の目指すべき水準の、ちょっとしんどいまでの高さがあって、さても現在、大学の教養の理念というのを考え、そしてそれを、それをどのあたりにイメージするかと考える場合に、教養を「いわゆる」文学を中心に考えるのなら、求められるべき水準の高さというか落差をどれくらい真剣に把握しているか。

神話と科学―ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀 (岩波現代文庫)

神話と科学―ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀 (岩波現代文庫)


それは、まあ、さすがにFぐらい知識があって、それをあらゆる瞬間に誇示できれば、たとえば世間の人もまあそれなりのものとして遇するではあろう。というかちょろまかせるというか、まあ世間も、それはそれとして納得して遇せざるをえない。

しかしまあそれは無理だし、目指すべきでないということになった場合、20年かけて営々と積み重ねた教育の最終的なありようがどのようなものであるべきか、あんまりちゃんとしたイメージはまだない。
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えっ?阪神の藪、アスレチックス入ったのか! また厳しそうなところに。アスレチックスは投手陣が抜けたのか? 大丈夫かなあ。才能とか物理的能力は高いんだろうと思うけど、ファンからするとポカの多いピッチャーだったからなあ。ローテーションはいれるかなあ。ちなみに藪は新宮出身(のはず)。

ところで藪、背番号4から13に変わったわけだが、縁起担ぐのか担がないのかはっきりしてくれ!(藪は姓名判断で何度となく名前を変えている。)