休日出勤なのであれこれ補足と覚え書き

日本の諸党派でもかつてあったことだと言われているが、いくつかに分立して互いに成果を競う小グループが、グループ間での威信争いで有利な位置を占めるために、互いに競って「人目を引く」成果を獲得しようとしているのならば、それはやはりメディアを意識した振る舞いであるだけでなく、むしろそれは手段が目的化したものだといわねばなるまい。
おそらくベールの問題についてはフランスからの譲歩はありえないだろう。もし彼らの獲得目標がグループ間の威信であるのならば、すでに彼らは多くのものを失っているともいえる(アラブないしはイスラム世界での低評価)し、何をやるか分からぬ過激なグループであるという評価を、ペルシアーイスラム世界で得ているのなら、何かしら「政治的な意味」はあったというべきだろう(ただしそのようなミクロな世界での利得がマクロ世界での利得と一致するかどうかはあやしいのだが、もし見ている世界が違えば、合理的に振る舞うことが長期的に非合理な結果をもたらすという事態は避けがたい)。

ただしこれは抽象的な推論なので、現実はまったく異なった事情で動いているのかもしれない。

フランスにいれば、もう少し基本的な情報を新聞の特集記事やなんかで教えてもらえるのかもしれないなあ。Le mondeのPDF版契約しようかなあ。

できれば新書は図書館では買ってほしくない(とりあえず大阪deep South cityのどのような本屋でもコンビにでも買えるようなコンピューター雑誌やファッション誌も。バックナンバーの意味はある? なるほど、でもコンピュータ雑誌っていろいろありますがな。あれですよ、あれ。)。それくらいなら外国の新聞やなんかを買ってほしいのだが、残念ながら司書の習性は利用度の低い本は買いたくない、というもの。畢竟、原典は教師の自己満足という見方をされる。もちろん地方公共団体なので、司書は一般の市民図書館司書のつもりで就職しており、大学図書館の司書になりたくて入ったわけではない、という事情もある。意欲的であればあるほど、彼(女)らにしてみると、「市民サービス』のできない大学図書館は面白くない職場ということにもなる。

さらにすくなくとも近年になるまで、大学生の図書館の使い方という点で、まともな教育がなされてきたとは思えない。修士になって修論でも書けばまた違うのだろうが、たとえば本をリファーしながら、調べものをしながら読むという行為を経験していない司書はざらにいる。(いやいやそれは司書に限った話ではなく「学士さま」の問題だ)。要するに「調べる」(調べて書く)ことを、ちゃんと大学で、いままでやらせてきたか、どうか。それが体感できていれば、大学図書館におくべき本はどのような種類の本か、というような最低限の共通理解は得られて当然なのだが、どうもそれがないということは、そういった教育がなされてない可能性が高いとにらんでいる。

まあその傍証がうちの大学の横文字文学(とくに英米)の棚だ。たぶん「研究」している本人たちが、いわば図書館を使うような「研究』の仕方をしていないんじゃないのか(ほんのそろえ方を見ると)。まあそれは時代を考えればしょうがないのかもしれないがしかし。
だとすると文学研究(正確にはその文学研究なるものを大学で教えること)にどのような社会的な意味があるのか、と言われると、「ない」とこたえざるを得なくなる。たとえば哲学は鉛筆と紙があればできるというようなことを、言う人がいるのだが(いやそれは、もと同僚なのだが)、ドイツの19世紀以降の哲学者を専門にしている人間が冗談でもそのようなことは言えないと思うのだが、言えてしまう世界に生きてきたことは、やはり多かれ少なかれ、文学部ないしは人文科学というものにたいする低評価の遠因になっていると言わざるを得ない。

まあ昨今の哲学の動向を考えるとそれでもアリだが、なら数学か論理学がカリキュラムの中心に据えられていないとまずい。独学ってわけにはな。格好はつけておかないとまずいだろう。いくら弱小だからといってバスケットボールやるのに、3ポイントシュートは難しくて入らないので、練習メニューからは除きます、というわけにはゆかんわな。

もちろんまったく徒手空拳で、紙と鉛筆だけで何ものかを作り出す、という可能性をまったく否定はしないが、それは(制度としての)大学(教育)を説明するものではない。

大学の理念(しばしば中世にまでさかのぼられる)を、いまごろ称揚するひとは多いが、その「大学」なるもの(とくにルネサンスと呼ばれる時期)の技術偏重もついでに称揚してもらわないと、ほとんどそれは根拠を失うんじゃないか。

しかし大学時代にまったく授業に出なかったおれが変なこと書いているなあ。年取ったということか。たぶんそういうふうにきっちり教育されていたら、大学には適応できなかっただろうに。へんなの。

でも大学(とくに人文系かつ地方一般大学)の意義を考えるとどうしてもこの辺(情報を収集して、考えるために必要なことを調べる)に帰着するんだが、なんか間違った推論してるだろうか。
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ただまあ新書については買っておいてもいいものもあるのかな(これだけ出版されてすぐ絶版になると)、とも思うんだけれど。

ちなみにコンピュータ雑誌やファッション誌を資料として買うのならわかりますが、ガンガン捨ててますから。念のため。

そんなのはちゃんと主張して改革しろって?ごもっとも。でも言ってるけどなかなか周囲の了解は得られませんな。それになぜか(何度も立候補しているのに!)図書委員だけはやらせてもらえない(助手なのにありとあらゆる役職はやらせたくせに!)。なんか私物化してろくでもないことすると思われてるんだな! 確かにしたかもな! そうか自業自得か。

でも公費(研究費)でマック・パワー買うのはやめれ。(そうかこういうこと言うからだめなのか)