ふーん

へへー。こんなのはっけん。なんか悪口っぽいことも書いてあるなあ。
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/module/Authors/index.html
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/module/index.html

あとフランス人とイタリア人の人質事件、というかイラクの情勢はやや懸念すべき方向に向っているようにみえる。ロシアの問題もいうまでもなく。

まあ紹介せんでも有名だろうが、
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/
で、いくつか日本発でない情報が、日本語で読める。tenjinusさんといい、えらく手間がかかると思うのだけれど頭が下がるなあ。

テロによってしか、みずからの声(存在?)を表現することができない、と彼らが思っているのだとすれば、それはもう政治的ななにものかではなく、つまりそのかぎりで合理的な解決が困難になってゆく。
イラクはまだそうはなっていない、と思う(思いたい)のだけれど。(しかしファルージャでの掃討戦はまだ続いている。その意味はどのようなものなのだろう。)

たとえば日本でしばしば暴発するメディア型犯罪のやるせなさ(そのような行為によってしか存在を示せない)も、似たような苦い味がする。(そうやってひとは存在を示さずにはやっていけないということも含めて。)

こうしてしか、テロによってしか、わたしたちは、世界の目をわたしたちに向けさせることはできない。

しかし、そのようなことはないのだ、とそう、僕らは応えるべきなのだ。これがまず最低限の線となるはずなのだ。(いま起こっていることを忘れないこと)

なにぶん一人一人ができることなどしれているのだ。ささやかに少しづつ行動すること。
***
ああ、ちがうな、近代的なテロ(とりわけパレスチナの)は、われわれに目を向けさせるためにあった。そのように始まった。そのかぎりでメディアを前提とした行為であり、声が社会的に(公共的に?)表現されないマイノリティの追いつめられたぎりぎりの「表現」であった。

けれど、いまやそれはテロによってみずからの存在を示すこと以上の結果を獲得しようとしている。おそらくそれは奇妙に「戦争」というものに近づいている。ある具体的な結果の獲得であり、自らの意思を力によって実現すること(とりわけフランスの公教育におけるベールの問題)。

このような変化は何を意味しているのか。

たんに例外的な挿話にすぎないのか?