Anthony Grafton,The Footnote

ところで、今日はなんか頭がはたらかないから、読書でもしようと思って、積読になってたGraftonのFootnoteをぼちぼち(英語はフランス語以上に語彙がないので、辞書を引き引きになってしまう)読んでいたんだけど、最初のGibbonのところで引っかかってしまった。単に学識を示すだけではなく、ときには皮肉だったり、含み笑いをしながらだったり、Gibbonの本音が脚注によく表現されているというような話が最初のところに書いてあったので、該当箇所を見ようと『ローマ帝国』を開いてみると、どうもへん。原書が手の届くようなところにおいてあるような教養人でもないので、ちくまの文庫版(中野他訳)だったのだけれど、該当箇所が見つからない。へんだな、と思って図書館にいくと、また大学の図書館がひどくて、英文学科があるんだけど、ここの教員はあんまり教養がないのがまるわかりな品揃え(おっと!)で、100歩譲って、良い本は私費で買ってるとしても、いちおう院生もいるのに、これじゃあ学生も困るだろうというほどに原典がない。(あるにはあっても、恥ずかしくて引用もできないような本ばかり。)やっと探し出したらずいぶん昔に買った、編者の注もついてないようなものしかない。ギボンって英文学ではマイナーなんすかね。まえにEzra Pound探したときも、アメリカの大学生向けのアンソロジーしかなかったりして・・・・(あれは就職してすぐだったから、さすがに今はもうあるだろうか)。

The Footnote: A Curious History

The Footnote: A Curious History

とまあこういう不満を書きたいのではなくて、ともかくGibbonの英語を呼んでみると、なんとちくま文庫のやつは、Graftonが引用しているGibbonの生の声がでているような部分はことごとくカットされていた。これはもう見事に。いくつか救い出されている箇所もあるけれど、ほとんどがしかし単に史実にかかわる部分のみ。脚注を訳す余裕がなかったのかと思うとそうではなさそうで、やたらと長い訳者注がついていたりする(しかもやはり史実に関すること。たとえばグノーシス派に関する長い訳注とかいらないと思うんだけど。)。
どうやらギボンのあの本は文学書ではなくて、あくまで史書であって(それは確かにそうなのだけれど)、文学的な装飾はいらないという方針のようにしか見えないのだが、しかしそれって変だよなあ。
しかしこれは英文学方面では有名な話なのだろうか。どういう事情でああなっているんだろう。日本語訳のハードカバーのほうは全訳されていて、これは文庫版だけの事情なんだろうか。ちょっと謎だ。
とまあそんなことをやっていると、全然まえに進まない。読むの早くなりたいなあ。
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ところで、こんなものを読んでいる時間はないのだけれど(どうせ翻訳は進行中だろうし)、The Footnoteはなかなか面白い。ある種の皮肉な目線というのに弱いんだな。これはしかしnymarの仕事には参考になるかも。