哲学、あるいは徳育、あるいは文学について

すべては物語であって、そこで語られていたのは人生の教訓であったのかもしれない。つまり説話である。そしてそれはかつて仏教に由来していたものだが、そこに接ぎ木されるかたちでキリスト教的なものが加えられたのであろう。いずれにせよ宗教的な、と形容されるべきものであり、非世俗的ななにものかであって、幸か不幸か公教育とされたもののなかに二重にねじれたかたちで埋め込まれるに至ったのであろう。
幸か不幸かプロテスタント的なものが優位にあったために、矛盾が矛盾として意識されることがなかったのかもしれない。フランスの啓蒙思想宗教改革運動の継続という面は否定できない。結果的に逸脱していったにせよ。しかし現在のスピリチュアルなものと称する、その大衆化の弊害を見るかぎり、それは世俗の側だけではなく、宗教にとっても不幸なことであったのではないか。
徳育において問題となっているのこと、そしてその大学版である教養教育において問題となっている(いた)のはこのことであろう。半ば歴史的な偶然によって外国語教育がこの説話文学を担っていたのであるから。それは文学と称される場合もあったし、哲学と称される場合もあった。しかしいまやそれが総合教育というかたちで、理科教育にまで及ぼうとしている(水からの伝説)。いまいちど人文科学においてもそれは自明なことではなく、むしろ一種の倒錯であることは確認しておいたほうがいいだろう。